被爆直後の長崎の少年


今日はお彼岸明け。あの世から早い人で2月中旬からきている故人も、或は今月12日からきている人もいました。

故人の皆さんは、今日の深夜から明日の未明にかけて、あの世にお帰りになるのでしょうね。

さて、以下の記事は、皆さんにはご存知と思いますが、改めて記載しました。尚、この記事や画像は、以下の映像や記事を切り取って繋いだものです。

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(映像)
解かされた封印 ~米軍カメラマンが見たNAGASAKI
(↑ お時間のある方はこの映像をご覧下さい。)

(本)
トランクの中の日本―米従軍カメラマンの非公式記録
Joe O’Donnell (原著), ジョー オダネル

(記事)


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ジョー・オダネル(Joe O'Donnell、Joseph Roger O'Donnell、1922年5月7日 - 2007年8月9日)は、米国文化情報局に勤務した米国の記録映像作家、フォトジャーナリスト及び写真家。

ペンシルベニア州ジョンスタウン生まれ。最も有名な作品としては、1945年と1946年に日本の長崎及び広島における原爆投下直後の状況を、米海兵隊の写真家として撮影した一群の記録写真がある。(ウィキペディアより)

以下、本文。
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「突然の日本軍による真珠湾攻撃。私は復讐心に燃え、海兵隊に志願した。

日本人に怒り、日本人を殺すために、軍隊に入ったのだ。

日本への憎しみから兵士に志願したオダネル。
19才の冬、海兵隊に入隊し、写真記録班に配属されました。
1945年8月、初めて原爆投下のニュースを聞いた時の心境を、手記に残していました。

『新型兵器が日本に落とされた。10万人くらい死んだらしい。
はじめは、あのクソったれ日本人との対決を鼓舞するプロパガンダかと思ったが、本当らしい。とにかくこれで、戦争は終わりだ』

終戦から一ヵ月が過ぎた、9月22日。
オダネルの所属する海兵隊第5師団は、占領軍として、長崎県佐世保市に上陸しました。
被害の様子を撮影しながら、オダネルは、原爆が落とされた長崎の爆心地へと向かって行きました。

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「昨日のことのように思い出される。
1945年、私は、原爆の破壊状況を記録する任務で、長崎に入った」

長崎に足を踏み入れたオダネルは、その光景に衝撃を受けます。

爆心地からおよそ1キロの、三菱製鋼所。千人を超す従業員が、亡くなっていました。

爆心地から500メートル、130人の生徒が死亡した、鎮西学院です。
オダネルは一歩ずつ、爆心地に近づきながら、任務に従い、その破壊力を記録していきました。

辿り着いた爆心地です。アメリカ兵たちは、その場所を、グラウンド・ゼロ(爆心地)と呼んでいました。

新型兵器としか聞いていなかったオダネルにとって、目の前の現実は、想像をはるかに超えたものでした。

「私は、灰と瓦礫につまづきながら、爆心地を見渡した。
衝撃的だった。
そこには、人が暮らした文明の跡形も無かった。
自分が地球に立っているとは思えないほどの破壊だった」

爆心地のそばにアメリカ軍が立てた看板です。
アトミック・フィールド(ATOMICFIELD)
それは、軍が瓦礫の中に作った、飛行場のことでした。(中略)

許可無く日本人を撮ってはいけないという、軍の命令に背き、オダネルは、そこに生きる人々を密かに撮影し始めたのです。

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「多くの子どもが、戦場か原爆で、親を亡くしていた。
生き延びた子どもは、幼い弟や妹を、親代わりとなって支えていた」

日本人の撮影を続けていたオダネルは、被爆者が治療を受ける救護所へ向かいました。そして、原爆が人間にもたらす現実を、目の当たりにします。

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日本の映画会社が撮影した、臨時救護所の映像です。
オダネルは、ここを訪れていました。
そこで出会ったひとりの被爆者について語っています。

「私が見たその人は、これまで出会ったけが人と、全く違っていた。
彼には髪の毛が無かった。眉も鼻も耳も無かった。
顔といえる原型はなく、肉の塊だった。

彼は私にこう言った。
『あなたは敵でしょう。殺してください』
私は逃げるように彼から離れ、別の患者に向き直った。
部屋を去るとき、再び彼を見た。
まだ『殺してくれ』と言っていた。
自分にできることなど何も無かった。
その時、肉の塊にしか見えなかった彼の両目から、涙が流れていた」

あの被爆者はどうなったのか。
その夜、オダネルは眠ることができませんでした。
翌日救護所を訪ねると、ベッドにその被爆者の姿はもうありませんでした。

ここでオダネルは、1枚だけ写真を撮影しています。
熱線でやけどを負い、死線を彷徨っていた、別の少年の背中でした。
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「この世のものとは思えないものを見た。
それは本当に酷かった。死んだ人、子どもたち、その母親、間もなく死ぬ人、飢えている人、そして原爆症……。

あまりにも多くの傷ついた人々を撮影しているうちに、日本人に持っていた憎しみが消えていった。憎しみから哀れみに変わった。

なぜ人間が、同じ人間に、こんな恐ろしいことをしてしまったのか。
私には理解できない」

爆心地周辺。
オダネルが、最も多く撮影した場所があります。
廃墟の町を見下ろす丘に、辛うじて建つ建物でした。

原爆投下によって、8500人の信者が、長崎で亡くなりました。
熱線に焼かれた彫像。オダネルは、その目線の先を追いました。

そこに広がっていたのは、見渡す限りの焦土と化した、長崎の町でした。長崎を南北に貫く浦上川。

そのほとりに降りて行ったオダネルは、生涯忘れられない光景と出会います。そこは、火葬場でした。

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焼け野原を、ひとりの少年が歩いて来ました。

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《焼き場に10歳くらいの少年がやってきた。小さな体はやせ細り、ぼろぼろの服を着てはだしだった。少年の背中には2歳にもならない幼い男の子がくくりつけられていた。

その子はまるで眠っているようで見たところ体のどこにも火傷の跡は見当たらない。

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 少年は焼き場のふちまで進むとそこで立ち止まる。
わき上がる熱風にも動じない。

係員は背中の幼児を下ろし、足元の燃えさかる火の上に乗せた。
まもなく、脂の焼ける音がジュウと私の耳にも届く。

炎は勢いよく燃え上がり、立ちつくす少年の顔を赤く染めた。
気落ちしたかのように背が丸くなった少年はまたすぐに背筋を伸ばす。

私は彼から目をそらすことができなかった。
少年は気を付けの姿勢で、じっと前を見つづけた。

一度も焼かれる弟に目を落とすことはない。
軍人も顔負けの見事な直立不動の姿勢で弟を見送ったのだ。

 私はカメラのファインダーを通して、涙も出ないほどの悲しみに打ちひしがれた顔を見守った。

私は彼の肩を抱いてやりたかった。
しかし声をかけることもできないまま、ただもう一度シャッターを切った。

急に彼は回れ右をすると、背筋をぴんと張り、まっすぐ前を見て歩み去った。一度もうしろを振り向かないまま。

係員によると、少年の弟は夜の間に死んでしまったのだという。
その日の夕方、家にもどってズボンをぬぐと、まるで妖気が立ち登るように、死臭があたりにただよった。

今日一日見た人々のことを思うと胸が痛んだ。あの少年はどこへ行き、どうして生きていくのだろうか?》

《この少年が死んでしまった弟をつれて焼き場にやってきたとき、私は初めて軍隊の影響がこんな幼い子供にまで及んでいることを知った。

アメリカの少年はとてもこんなことはできないだろう。
直立不動の姿勢で、何の感情も見せず、涙も流さなかった。
そばに行ってなぐさめてやりたいと思ったが、それもできなかった。

もし私がそうすれば、彼の苦痛と悲しみを必死でこらえている力をくずしてしまうだろう。私はなす術もなく、立ちつくしていた。》

無表情と思われた少年だったが、カメラマンのジョー・オダネルは、炎を食い入るように見つめる少年の唇に血が滲んでいるのに気がつく。
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少年があまりにきつく噛みしめている為、唇の血は流れることなく、ただ少年の下唇に赤くにじんでいたのだった。
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オダネルは、長崎や佐世保などの地域を、7ヵ月に渡って撮影しました。任務として撮影したネガは、軍に提出。

密かに撮影した個人のネガは、開封禁止と書かれた箱に入れ、未使用のフィルムに見せかけ、アメリカに持ち帰っていったのです。

帰国後オダネルは、長崎での記憶に、精神を苛まれます。

被爆者たちの体をうごめくウジ、助けを求める声、鼻をつく異臭。
私は、長崎で見た悪夢のような光景を、思い出すまいとした。

しかしその光景は頭から離れず、私を苛み続けた。
あの時のアメリカの決断は、正しかったと言えるだろうか。

眠ろうとしても眠れない。
悪夢が終らないのだ。
写真を見たくなかった。

見ると、あの1945年の時に引き戻されて、長崎の悪夢がよみがえってしまう。見ないという他に、私にはなにもできなかった」

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苦しみから逃れるため、オダネルは、すべての写真をトランクに封印しました。
屋根裏部屋に隠し、以後43年間、開けることはありませんでした。

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家族が、唯一禁じられていたことがありました。

タイグ氏:「とにかく緑の軍のトランクだけには、何があっても絶対に触るなと、いつも言われていたんです」

中に何が入っているのか、家族に知らされることはありませんでした。

帰国して3年後の1949年、オダネルはアメリカ情報局に勤務しました。大統領の専属カメラマンに抜擢され、ホワイトハウスで働き始めたのです。

最初に担当したのは、日本に原爆投下の決定を下した、トルーマン大統領でした。アメリカは、原爆投下を正当化し、核戦略を強化していました。

トルーマン大統領:
「原爆投下は、戦争を早く終らせるためだ。
多くの若いアメリカ兵の、命を救うためだった」

核実験の成功を伝えるニュース映像
核実験が砂漠で始まってから、経済効果も上がり、ラスベガスは盛況。アイドル”ミス原爆”も登場。

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日本に原爆を落としたことをどう思っているのか。オダネルは一度だけ、自分の思いを、トルーマン大統領にぶつけました。

それは、トルーマン大統領が、朝鮮戦争を指揮していたマッカーサー司令官と会談した、1950年のできごとでした。

「『大統領、私は長崎と広島で、写真を撮っていました。
あなたは、日本に原爆を落としたことを、後悔したことはありませんか?』

彼は動揺し、顔を真っ赤にしてこう言った。
『当然それはある。しかし、原爆投下は、私のアイディアではない。私は前の大統領から、単に引き継いだだけだ』」

母国アメリカが推し進める核戦略と、長崎で見た、原爆が人間にもたらす現実。オダネルは、苦悩を深めていきました。

陸軍!海軍!沿岸警備隊海兵隊!空軍!
これがアメリカ!
毎年5月、ワシントンでは、退役軍人による記念パレードが行われます。
アメリカは、第二次大戦で敵国日本と戦った、オダネルたち退役軍人を讃えてきました。
高齢となった退役軍人は、その多くが、今なお、原爆投下の正当性を信じています。

「原爆は、日本の真珠湾攻撃と比べても悪くないだろう」
別の退役軍人: 「原爆は必要だった。ははは、何の罪悪感も無いよ」

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オダネルの体を、異変が襲います。
背骨の痛みと変形、さらに皮膚ガン。
オダネルは、原爆による症状だと確信しました。

「体のあちこちに異変が起きた。25回も手術することになった。
爆心地に送り込んでおきながら、軍は何も情報をくれなかった。
かなりひどい放射能汚染があったというのに、何も知らないまま、とてもたくさんの時間、長崎の爆心地にいた」

オダネルは、原爆による被害だと、アメリカ政府に補償を求めましたが、その訴えは却下されました。
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1989年、オダネルの運命が変わります。

オダネルは、偶然立ち寄った修道院で、そこに飾られていた、反核運動の彫像に出会います。

その全身には、被爆者の写真が貼られていました。

腰には、爆心地を彷徨うふたり。
右腕には、列を成す傷ついた人々の姿がありました。

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「私は、彫像を見て衝撃を受けた。
罪のない被爆者たちの写真が、彫像の全身に貼られていたのだ。
その多くは、女性であり、子どもたちだった。

それを見た時の気持ちは、言い表せない。
長崎の記憶がよみがえり、とても苦しくなった。
しかし私は、何かしなければと痛烈に感じた。
まさに啓示だった。
自分も、撮影した真実を、世界に伝えなければならないと」

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オダネルは屋根裏部屋に行き、43年ぶりに、トランクを開けました。
長崎と題されたネガは、朽ち果てることなく、当時のまま残っていました。

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トランクを開け、原爆の写真を並べ始めたオダネルの姿に、家族は衝撃を受けます。

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ジョー・オダネル:「私は、少年を必死に捜した。日本の新聞にも『この少年を知りませんか』と載せてもらった。少年はあの後、ひとりで生きていったのだろうか。ついに、彼に会うことができなかった」

行方を捜して十年。
しかし、少年の消息をつかむことは、ついにできませんでした。

日本とアメリカを行き来する生活する中で、オダネルの病状は悪化していきます。背骨の痛みは深刻になり、皮膚ガンは全身に転移していました。

そして去年の夏、ジョー・オダネルは、85才で息を引き取りました。
その日は奇しくも、長崎に原爆が落ちたのと同じ、8月9日でした。

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ジョー・オダネルの遺言

「たとえ小さな石であっても、池に投げ入れたら、波紋は広がっていく。それは少しずつ広がり、いつか陸に届くはずだ。

アメリカという陸にも、届く日が来る。
誰かが続いてくれれば、波紋はさらに広がっていく。
そしていつか、誰もが平和を実感できる日が来ると、信じている」

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                 おしまい

『忘れじな:広島と長崎の原爆』 2018/8/2(木)