ある韓国人の日本に帰化する心とは


これは、韓国で強烈な反日教育を受けてきた呉 善花(お・そんふぁ)女史が悪魔の国・日本に住んで何をどう思ったのかのその断片の記事の転記です。

尚、今春、彼女が言うには、戦後、韓国で生まれ育った韓国人の場合、韓国の反日教育により脳幹まで反日を叩きつけられているから、例え両親が親日であろうとも、韓国に在住する限り、親日にはならないと言っていましたね。まァ、当然ですが。


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呉 善花(お・そんふぁ)拓殖大学教授

1956年、韓国・済州島生まれ。83年来日、大東文化大学(英語学)卒業後、東京外国語大学地域研究科修士課程(北米地域研究)修了。新潟産業大学非常勤講師を経て、現在、拓殖大学国際開発学部教授。著書に、『韓国併合への道 完全版』(文春新書)ほか多数。

子供時代を済州島で過ごす。1983年に留学生として来日。大学院進学後に執筆活動を始め、日本で働く韓国人ホステスを題材とした「スカートの風」はベストセラーとなった。後にシリーズ化し、「続 スカートの風」「新 スカートの風」が出版されている。

他の著作に、『「日帝」だけで歴史は語れない』、『攘夷の韓国 開国の日本』(山本七平賞受賞)などがある。

戦前に日本在住経験のあった母親からの影響もあり、片言の日本語を披露しては済州島民に喜ばれていたと幼少期を振り返っている。

学校教育によって一時は反日主義に傾倒したが、来日した後にさまざまな葛藤を経て知日派になった。

韓国併合を全否定しないことや日本の自虐史観の改善を求めていることから、韓国では親日派、「韓国を卑下する書籍を出版してきた」という否定的評価を受けている。

また、韓国における漢字復活論支持者でもあり、自著でもたびたびハングル専用教育の弊害について言及している。


以下、本文

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これは一言でいえば、彼女が韓国の学校教育で植え付けられた反日という洗脳の呪縛を自ら苦労して解き放った記録である。

話は留学先を選ぶところから始まる。彼女は韓国の学校を卒業してアメリカに留学しようとしたが、ビザがなかなか取得できなかったため、日本に一旦留学して、日本からアメリカに留学しようと考えた。1983年、彼女が27歳の時のことである。


■1.初来日での「肩透かし」■

日帝時代を頑迷に反省しない日本人-それは許さないという反日意識を強く持っていた私は、どこへ行っても優し く親切な日本人、どこへ行っても整然としてきれいな日本の街並みに触れて、何か肩透かしをくわされた感じがした。
        
戦後、最も強固な反日教育を受けた「反日世代」といわれた私の世代は、日本といえば「悪魔の国」と答えるほどだったから、「日本人がよい人たちであるはずがない」という強い先入観をもっていたのである。
      
これが「東京経由のアメリカ留学」の計画で来日した27歳の韓国人女性・呉善花さんの日本での第一印象であった。


■2.日本の商売人は何て良心的なんだろう!■

昭和58年7月に留学生ビザで来日した呉善花さんは東京は北区十条の友人のアパートに同居し、そこから日本語学校に通い始めた。

ソウルでは間借り生活で台所やトイレも共用だったが、ここではすべて自前で、さらに友達が冷蔵庫、洗濯機、テレビ、電話まで揃えていたのにびっくりした。
    
白米のご飯のおいしさにも感動した。韓国で白米を食べられるようになったのは1988年のソウルオリンピックの頃からである。

それまでは一般の家庭では白米に粟や麦を混ぜて食べていた。学校へ持って行く弁当でも百パーセント白米のご飯は贅沢だというので禁止されていた。
    
そんなある日、近所のお米屋さんでお米を一袋買って炊いてみると、パサパサとしてまるでおいしくない。不思議に思って店で聞いてみると、三分づきのほとんど玄米と同じ健康食用のコメを間違えて買ってしまったと分かった。
    
店のご主人は呉さんが誤って買ったお米を普通のお米に取り替えてくれ、差額だけを支払って下さい、と言う。何て良心的なんだろうと呉さんは思った。

ソウルでは1万ウォン札を渡したのに、5千ウォンだったと店の人がごまかして喧嘩になったことが何度もある。日本ではそんな事は絶対にない、日本人は良心的だ、という噂が留学生たちの間に流れていく。


■3.自然の美しさ、人々の温かさ■

来日した当初は、親切な人が多い、秩序が安定している、街がきれい、豊かな生活物資が満ちあふれているなど、とにかくいい所ばかりが目についた。
    
特に呉さんの心を打ったのは、海と山が間近に接近した独特の地形が織りなす自然の美しさだった。東京の叔母に誘われて伊豆の東海岸を旅行した時には、その風景の美しさにすっかり魅了された。

これほど海と山と人の生活が溶け合った光景は韓国ではほとんど見られない。

海と山は平野によって遠くに隔てられている--そんな大陸的な風景が韓国のものである。旅先で出会った地元の人々からは、風景そのままの率直な温かさが伝わってくる。
    
都会でも山の緑が家々のすぐ近くまで張り出している。
それなのに人々はさらに自宅の庭に草木を植える。

韓国では人々が暮らす村里に緑があると動くのに邪魔になるという感覚が昔からある。庭に草木を植える家はかなり上流階級に限られていた。

しかし日本では普通の人でも普段の生活の中で緑を慈しむのだという。そんな違いも驚きだった。


■4.急に怒り出した八百屋さん■

日本に来て最初の一年は、良い日本に感激した時期であった。
それは韓国で教えられていた日本の姿とはまったく違っていた。

しかし、2年経ち、3年を経て、日本の内部に入っていくようになると、呉さんはしだいに文化や習慣の違いからくる摩擦に悩まされるようになっていった。
    
十条のアパートの近くに小さな八百屋があった。
ご主人が親切にしてくれるので、野菜はいつもその店から買っていた。

る日、キムチを作ろうと、その八百屋に白菜を買いに行った。

呉さんは店先に積まれた白菜を、一つ、また一つと触って品定めをしながら、「おじさん、今日は白菜をたくさん買いますからね、いいのを選んで下さいよ」と言った。
    
すると、主人は急に怒り出して、「悪いけど、うちのものはあなたには売りませんよ」。何が気に障ったのか、わけがわからない呉さんが「なぜそんなに怒るんですか」と聞くと、プイと横を向いて「朝鮮人にはものを売りませんよ」。

同じようなことが、美容院やお寿司屋さんでもあった。
ようやくその理由が分かったのは、それから数年後のことだった。

韓国ではものを作る人、売る人を一段下に見る風潮があり、また店の方でもいい加減なものを作ったり売ったりする傾向が 強い。

そのため買い物をする時に、品質について念を押したり、自ら商品に触って確かめるという事が一般的である。八百屋にいけば「いい野菜をください」というのが、ごく普通の挨拶であり、それが店の人への親しみの表現なのであった。
    
しかし、日本では八百屋は八百屋なりに、うちでは悪い野菜など売らない、という誇りがある。韓国流の「いい白菜をくださいね」という挨拶は、その誇りを傷つけるのだ。

こういう場合は「キムチを作りたいんだけど、どんな白菜がいいかしら」などと、相手を専門家として持ち上げてやることが日本流である。

こういう対人関係の有り様は、右側通行か、左側通行か、という交通規則と同じで、優劣の問題ではなく、一つの文化内暗黙のルールなのである。左側通行の社会で右側通行をしたらあちこちで衝突する。呉さんが悩んだのは、こういう文化の違いだった。

    
■5.消しゴム事件■

日本人の友だちができて、本格的につきあい始めると、ここでもさまざまな摩擦が生じてきた。(注)日本を知っていくと日本人の行動を彼女には理解できなかった。

たとえば、韓国ではご飯もスープも食卓に置いたまま、スプーンですくって食べるのが食事作法である。お茶碗を手に持って食べるのは、たいへん行儀の悪いことである。
    
それが日本の作法だと知っていても、目の前でそうされると、生理的な嫌悪感を抑えることができない。日本人はなぜそんなおかしな事をするのか、嫌な人たちだ、と思えてしまう。
    
大学に入ってから、とても気のあう日本人の友だちができた。
 しかし、その友だちは一緒に勉強していて、呉さんに消しゴムを借りる時に「ちょっと消しゴム、貸してくれる?」と聞くのである。

返すときもいちいち「ありがとう」と言う。そのたびに呉さんは「この人は私のことを本当に友だちだと思っているのだろうか?」と不安な気持ちに襲われるのだった。
    
韓国では親友や家族の間には、距離があってはいけない。私の物はあなたの物、あなたの物は私の物、それでこそ親密な間柄と言えるのである。

だから友だちの間で「消しゴムを貸して」とか、いちいち「ありがとう」などと言うのは、とても失 礼なことなのだ。

呉さんのほうは、友だちの消しゴムが横にあれば、まるで自分の物のように断りもなしに使い、返すときもいちいち「ありがとう」などとは言わない。

ある日、呉さんがいつものようにそうしたら、友だちは耐えかねたのか、明らかにムスッとした表情を示した。なぜそんな顔をされるのか、分からないまま、呉さんはいいようのない暗く沈んだ世界に一人取り残された気分に陥ってしまった。

(注)韓国には、「親しき仲にも礼儀あり」という習慣はない。

「多くの人たちが親しく、やさしく接してくれるものの、こちらから深く入ろうとすると、みんながみんな、なぜがスッと心を閉ざしてしまう」

やっぱり、日本は悪魔の国で、日本人の温かさは表面だけのものであり、内面は冷たい心の持ち主なのではないかと思えてきて、日本人の全てに嫌悪感を感じるようになっていった。
 
「いまから思えば、韓国人のようにベタベタとした関係を好まず、相手との適当な距離をとろうとする日本人特有の態度なのである」

そこで彼女は考えた、郷に入りては郷に従えだろうと。
彼女は自分の方から日本の習慣や日本人のものの見方に近づいていった。

キムチを食べるのをやめ、韓国人にとっては薄味過ぎる日本食に積極的に挑戦し、韓国人の目から見て価値があるとは思えないいただきもののコーヒーカップを奥から取り出してきて、毎日そのカップでコーヒーを飲み始めた。

そうこうしているうちに、日本人の美意識なるものの意味がおぼろげながらも見えてきたというのである。


■6.日本人も韓国人も行き違いに悩んでいる■

呉さんは大学に通いながら、コンサルタント会社でアルバイトをするようになった。そこでは月に1、2回日本のビジネスマン相手に韓国ビジネス・セミナーを開いており、呉さんは事務局役をやりながら、セミナーを後の席で聞いていることができた。
    
そこでは日韓の摩擦について話題になる事が多かった。ちょうど呉さんと反対に、日本人ビジネスマンが韓国に行って、摩擦に悩むという声がしばしば聞かれた。悩みはお互い様なのだ、という当たり前のことに気づかされて呉さんは嬉しくなった。

そのうちに会社からの要望で、日本人ビジネスマンに韓国語を教え始めた。

ちょうどその頃、縁があって、韓国人ホステス数人相手の日本語教室を自分のアパートで開いてみた。一般の学校での教え方とは違って、韓国人が理解しにくい日本人の発想の仕方から教えていくと、同じ年頃の韓国人の女性から教わるという事もあって、よく分かる、と好評だった。
    
「こんな言葉を使えば、日本人の男性には好感を持たれるのよ。韓国式にこんないい方をすれば、必ず嫌われるわよ」と呉さんが教える。

彼女たちは早速、店でそれを実行すると、「なるほど先生の言うとおりだった」となる。その評判がパッと口コミで韓国人ホステスの間で広がった。
    
昼は韓国人との行き違いに悩む日本人ビジネスマンに教え、夕方は日本人との行き違いに悩む韓国人ホステスを教える。

本人と話しても、韓国人と話しても、行き違いはだいたい共通する所にあった。日韓摩擦のポイントは、その共通項の解明にあるのだ、という考えが徐々に固まっていった。

そして語学教室でそのあたりから教えていくと、日本人ビジネスマンも韓国人ホステスも非常によく理解してくれるのである。まさに生き文化人類学研究であった。

異なる文化間の摩擦とは、相手が自分のルールに従ってくれない、という所から来る。自分では左側通行が当たり前だと思っているのに、相手が右側通行をするので「なぜこの人は平気交通違反をするのか」と悩んだり、怒ったりすることになる。

それは「違反」なのではなく、相手は違った交通ルール体系に従っているのだ、と知ることが、摩擦を乗り越える第一歩なのであろう。そうしてお互いの交通ルールの違いを知ることが、まさに自分自身を知ることにもつながる。
  
   
■7.彼女は済州島出身の田舎者で、、、■

平成2年、呉さんは「スカートの風」を出版した。日韓の文化・習慣の行き違いについて、韓国人ホステスの例などを通じて述べた本である。

反響は大きく、3ヶ月ほどで10万部を超えるベストセラーとなった。これを機に、あちこちから講演や原稿執筆の依頼が殺到するようになった。

ある時、東京の日本語学校の先生たちの集まりで、一時間ほど講演をして欲しいという依頼を受けた。その場には主催者側が、東大の博士課程に在学中だという韓国人男性を呼んでいた。

呉さんの話が終わって、質問の時間になると、その韓国人が立ち上がって、つかつかと前に出てマイクを握った。
    
みなさん、私は、いままで何も言わずに黙って聞いてきた けど、彼女がどういう人だか知っているのですか。彼女は韓国の軍隊出身なのですよ。
        
確かに呉さんは高校を出てから、きびきびした女性軍人に憧れ、10倍以上の狭き門をくぐって、教育期間を含めて4年間軍隊に在籍し、その間大学にも行った。

しかし、それと呉さんの講演と何の関係があるのか、日本人聴衆はまったく分からなかったろう。この男性が言いたかったのは、軍隊に行くような女はまともではない、ということであった。さらにこう続けた。

彼女は済州島出身の田舎者で、日本に来ても歌舞伎町のホステスたちと仲良くしているような人間だ。そんな人間が話すことを、あなた方は韓国の代表的な意見であるかのように聞いたり、質問したりして、盛り上がっているというのは、いったいどういうことですか?
 
       
■8.「紺屋の白袴」■

その時、後ろに座っていた一人の日本人が「失礼なことをいうな。おまえ出て行け!」と怒鳴った。韓国人男性は「そっちこそ失礼ではないか、人がせっかく説明してあげているのに怒鳴って」と、怒鳴られた理由がまるで分かっていない。
    
そこで彼は、自分を紹介しますと言って、私は東大の博士課程にいて、有名な○○先生のもとで、これこれの研究をしている、と自慢げにとうとうと述べ立て始めた。

これが韓国であれば、一にも二にも彼の輝かしい学歴が、その主張の正しさを保証し、だれもが彼の意見を尊重する所だ。 

しかし日本ではそうはならない。高学歴だからと言って、その人の言うことが正しいとは誰も思わないし、そもそも「学者馬鹿」などという言葉すらある。

会場の日本人たちからは口々に彼への反発の声があがる。しかし、彼はなぜ日本人たちが自分に反発しているのか、まるで分からない。
    
異文化摩擦の絵に描いたような事例である。呉さんには、その行き違いが手に取るように分かった。
     
この男性は博士課程で文化人類学を研究しながら、自分自身では日韓の文化の違いをまるで理解せずに、韓国流そのままで振る舞って、日本人聴衆の反発をかっていたのである。まさに紺屋の白袴」とはこの事だ。


■9.行き違いを克服した原動力■

平成9年4月に呉さんは新宿の高層ビル街にマンションを購入した。呉さんが日本に渡って16年、物書きを職業とするようになって、すでに12冊もの本を出していた。マンション購入は日本への定住の意思表明だった。
    
呉さんが今までを思い返してみると、日本という異文化社会に飛び込んで、様々な迷路に迷い込み、何度も行き違いに悩んできた。

そんな呉さんを救ってくれたのは、「よき人」との出会いだった。行く先々で本当にいい人たちと出会え、その人たちが様々な形で呉さんを助けてくれた。
    
そしてそういう「よき人」たちとの出会いを作りだしたのは、呉さん自身の「よき人」を求める気持ちの強さ、真剣さではなかったか。

日韓の行き違いから逃げずに、「よき人」を求めるて悩みながらも行き違いを直視し、その原因を考えてきた。その真剣さが、行き違いを克服する原動力だったのだろう。
    
現代のグローバル社会では、あらゆる国々や民族との文化摩擦を乗り越えていかねばならない。その「しんどさ」に耐えていくためには、それだけ「よき人」を求める真剣さを持たねばならないのだろう。


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(メモ)上記の文中、大抵の人が読み過ごすだろう箇所がある。

一つ目は、彼女が幼少時代、カタコトの日本語を話すと島民から褒められたこと。
これは、日韓併合時代を生きた大人たちが、親日であったという証。

二つ目は、韓国人の東大博士過程の男が彼女をなじったところである。
それは、皆の前で彼女を『済州島出身者』と叫んだことである。

この言葉は、彼女を卑下(差別)したもの。
この意味は 「彼女は卑しい済州島出身だから相手にするな」 ということ。

韓国社会や日本の在日社会では、朝鮮半島人済州島出身を差別する。
これらの社会での差別は半端なもんじゃない。
在日が人種差別と叫んでいるのは、このことも含む。

尚、朝鮮半島出身者は悪質なものが多いが、斉州島出身者には温和な者が多いとの由。更に、済州島出身者のDNAは、日本人に近いとの由。
                              参考まで
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呉 善花(お・そんふぁ)著

『スカートの風―日本永住をめざす韓国の女たち』 (角川文庫) [文庫]




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(本書のレビュー抜粋)

日韓の文化比較研究や現代韓国の解説など、多くの著作をものしている現拓殖大学教授・呉善花女史だが、彼女の名が一躍知られるようになったのは平成二年に上梓された本書のヒットによる。

無名の韓国人留学生の処女作は瞬く間にベストセラーになり、韓国という国の特殊性に多くの日本人が目を向ける端緒をつくった。不可解であった韓国人の行動原理が、本書で理解できたという者も多数生まれたものである。

筆者は日本で働く韓国人ホステスに光を当てる。女は子を産む存在に過ぎない男尊
女卑国家・韓国の女性の悲哀。妻として生きられなければ、春を売るしかない現実。

なぜ日本は違うのか?という筆者の疑問は、日本人の精神の奥底に食い入っていく。

出版時期からいって、筆者の体験は多くが昭和のものだろう。豊かになった韓国も
変化はしているに違いない。だが本書の描く韓国の底流は今も変わっていないようだ。

本書は公平な目で検証した日韓文化比較論だが、韓国人からすれば許し難い著作であったらしく、呉善花は実在せず、日本人の成りすましだという俗説が一部で流れ、呉善花探しが行われた。

彼女の実在が確認されるとそうした虚報は消えていったが、やがて彼女の名は売国奴の代名詞と化し、糾弾の対象となっていく。韓国当局による執拗な嫌がらせや脅迫を受けたこともあり、その後帰化の道を選択するに至る。