90歳のお婆さんの青春時代
今年(2013年夏)のお盆の時のこと。
偶々、知人の90歳前後のお婆さん宅で、お婆さんとそのお孫さんの娘さん(30歳過ぎ)と話す機会がありました。
その時、彼女(お婆さん)は遠い昔を思い出すような眼差しで、それまでの話の延長線上ではない全く別の話に飛んだのです。
彼女は、戦時中、県立本荘高等女学校(戦後、由利高校に改称)に通学していました。いわゆる女子高ですね。
その彼女が、男子校だった本荘高校の校歌を歌いだしたのです。
(一番)
登る朝日に照り栄えて ♪~
姿雄々しき鳥海山 ♪~
千古の理想いや高く ♪~
みそらはるかに仰ぎつつ ♪~
右文尚武いそしみて ♪~
起て鶴城(かくじょう)の健男子♪~
私の場合は、高校時代でさえ、この校歌はまともに歌えないのに。
「あの頃は・・・・」
そう言ってお婆さんは昔話を始めましたね。
☆
注)上記地図での現在の尾崎小は、かっての本荘高校の跡地に建てたもの。
戦時中、(我らの昭和30年代もそうでしたが)、県立本荘高等女学校(戦後、由利高校)と、県立本荘中学(戦後、本荘高校)とは、敷地が隣同士だったのです。
戦時中のこと、女子高では、授業というより、男子校との境界になっている畑を耕したり種を植えたり収穫したりの仕事が中心でした。
毎日が畑仕事ですから、自然と隣の男子生徒達の歌う校歌が流れてきて、否が応でも校歌を覚えてしまったとのことでした。
(上の画像の説明)2012.05.18撮影。+をクリックしたら画像拡大します。
このグランドで、旧制本荘中学の生徒たちが毎日校歌を歌っていました。
向こう(南)に白く見えるのが冠雪している鳥海山。
右(西)の土手の上に旧制本荘中学の校舎があった。
左(東方)の今の住宅が、彼女らが昔耕した畑の場所。
目隠しとした木が、今でも残っている。
この女子高では、全員が、遠回りしようが、女子高への通学ルートが決められていました。つまり、男子校前の松並木の道路の通行(地図㋑⇔㋺)は禁止されたのです。
(上の画像説明)
手前が、地図での㋑の場所。松ノ木の並木の向こう(東)が㋺。
この並木通りを、彼女らは通行禁止されていた。
昭和30年代後半の場合、この松並木通りを由利高校生が通ったら一部の生徒間では大騒ぎ。我らの本荘高校は共学でしたが、女性はスッピン。対して、由利高校生は程良い化粧をしていましたから、きれいでした。
処が、戦時中、女子高の皆さんは、男子校の前を通りたくて通りたくて。禁止されると、一層、通りたくなる。
但し、戦時中、冬になると通れたのです。
雪が積もると、女子高の体育の授業は必ずと言っていい程スキー。
そのスキーの授業では、本荘公園(鶴舞公園)のスロープで滑るのです。
ですから、女生徒達は、皆、スキーを担いで、本荘中学の前(地図㋑⇔㋺)を通るのです。それが、皆、嬉しくて!嬉しくて!
全員、スキーの授業が大好きだったとのこと。
☆
お婆さんはこう話してから、再度、本荘高校の校歌二番を歌い出しました。私と、そのお孫さんは微笑みながら、その歌を聞きました。
あの頃の思い出、感情、恋心などが、お婆さんの胸でいっぱいになっていたのでしょうね。
おしまい
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私の履歴書幼少~10代編目次
参考)由利高校 (注)画像は移転前の旧校舎
大正9年、秋田県由利郡本荘町立実践高等女学校創立。
大正13年、県に移管。秋田県立本荘高等女学校
戦時中の当時の学校名は、秋田県立本荘高等女学校。
戦後の昭和23年より秋田県立由利高等学校に改称。
尚、6年前の平成19年より、男女共学となる。
平成20年、新校舎へ移転。
参考)本荘高校 (注)画像は昭和36年までも旧校舎
明治35年、秋田県立本荘中学創立。男子校。
昭和23年、秋田県立本荘高等学校と改称。
昭和26年、初の女学生入学。
昭和63年、新校舎に移転。
注)上記二枚の旧校舎の画像借用先