私のルーツ探索(5)郷土史家の書く渕名家


私のルーツ探索(5)郷土史家の書く渕名家

今夏(2013年お盆)帰郷の折、仏壇の上から見つけた茶封筒の中に、渕名家に関する記事原稿文を発見したので、掲載します。

分かり易い内容となっています。

筆者:町史編纂委員 植村虎司氏
原稿記述日:昭和58年(1983年)2月17日

以下、原稿用紙に記入されていた原文。
この原稿は、植村氏が母にコピーで渡したものでしょう。

尚、文中、青文字の注)は、私が加筆したもの。漢字のふりがなも然り。
植村氏のこの原稿作成の為に調べたことと、私が調べたことを挿入しました。

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渕名家一党の事績

今から八百年前の鎌倉期に、清和源氏の名流渕名家の一党が出羽に落ち延びるが、鳥海山麓に住みついたという口伝は永く史家の間に喧伝(けんでん)されて注目を引いた。(昭和16年秋田魁新報

鮎川村郷土史には、戦国の世、天正年間、蒲田館主として渕名豊前(ぶぜん)守が山崎館の鮎川氏と共に、三十年間にわたり鮎川郷を支配したとあります。

注)天正年間とは概略で言えば安土桃山時代
注)鮎川氏と渕名氏の菩提寺は、当時ここ鮎川郷の「瑞光寺」であったが、両家とも、今はここに無い。時期不明だが、鮎川氏の墓は静岡に移転したという。

この渕名氏の出自や系図・家記・事績等について、当時蒲田館の木戸番を勤めたという蒲田の木内惣十郎家に、門外不出の巻物一巻が秘蔵されているという。

未だ拝見していないので詳しいことはわからないが、由利原一帯をかけて鮎川郷南部の開拓・開発に渕名家一党の活躍が大きく貢献したものと思われる。

「永慶軍記」に、この豊前守は「卜春斎」(ぼくしゅんさい)と号し二代目孫三郎親成と共にたびたび出兵して活躍する。

慶長五年(1600年)、仁賀保兵庫頭勝俊を総大将とする由利勢が、山北の小野寺義道(横手城)の弟大森孫五郎康道の大森城を攻略した。
いわゆる大森合戦である。

激戦を重ねながらなかなか落城せず越年しようとした時、小野寺方から孫三郎親成宛、和睦執り成し依頼の親書が送られ、ようやく和睦が成立し、十二月積雪五尺余の中を、三千の兵卒が苦斗の末、由利へ帰陣したとある。

注)「奥羽永慶軍記」
この本の中の「巻二十九、280~283ページに、小助川治部少輔殿 渕名孫三郎殿宛に、大森孫五郎康道からの和睦状の全文が書かれている。
尚、この永慶軍記には淵名孫三郎親成が数度登場している。

しかし、その前の九月の関ヶ原の役に、由利勢は最上義光の配下に入り、石田三成方の会津上杉景勝攻略に出陣した。

ところが途中石田方の謀略による虚報に、戦列を離れた責任を問われて玉米・下村・石沢・赤穂津・子吉。潟保氏等と共に領地没収となり、十二頭の瓦解と共に消えてゆく。

元和九年(1623年)六郷政乗が常陸の府中から本荘藩二万石の領主として入部するや、渕名氏はその臣として仕えることになった。

注)常陸国府中 現在の茨城県石岡市
尚、六郷家の菩提寺である由利本荘市古雪の永泉寺(ようせんじ)も、常陸国府中から城主六郷政乗と共に本荘に移転した。渕名家の菩提寺もここ永泉寺。


注)「出羽風土記」より

曹洞宗慈雲山瑞光寺 当寺の開基詳ならず。寛永15年(1638年)蒲田館主渕名豊前守再建と云う」

これから推測されることは、この時は既に六郷家(本荘藩)に仕えながらも、猶、地方の豪族として隠然たる勢力を持っていて、瑞光寺を再建。


注)高橋栄家の古文書より

「鮎川郷中高目覚 慶安三年(1650年)六月 渕名藤兵衛筆」とあることから、渕名氏は、まだまだ鮎川郷の地方有力者として名主的地位を実際に持っていたものと考えられる。

(何の文書かは、原文がないから不明。尚、「郷中」とは地方の意味。「高目」は囲碁用語。)

藩の分限帳2~3拾ってみると、

慶安三年(1650年)
茂兵衛 26俵三人御扶持(ぶち)

注)二代目政勝公時代の禄高。「高山家所蔵の分限帳」より。

注)他の同列の武士は、滝沢六右ヱ門26俵。尚、12頭後裔(こうえい)の玉米右ヱ門はこの時、60俵二人扶持。


延宝二年(1674年)
茂兵衛 36俵 二人御扶持 御蔵方

注)三代目政信公時代の禄高「高山家所蔵の分限帳」より。

注)蔵方とは 倉庫を管理し、金銭・穀物・器財などの出納をつかさどったもの。
この頃は、鮎川郷、子吉郷、内越郷等の代官クラスの石高も36俵であるから、代官クラスに昇進したものと思われる。


宝永四年(1707年)
忠兵衛 36俵 二人御扶持 御目付

注)四代目政晴公時代の禄高。「本荘藩分限帳第八巻」より。

注)目付とは、 馬廻格の藩士より有能な人物が登用され、大目付や家老の統括に置かれることが多い。上級役職者の監視や評定を行い、何事にも関与でき、位階は低いが権限は相当なもの。目付の同意なければ上級役職者は仕事にならない。配下に徒目付・歩行目付・横目などといった足軽徒士の戦果及び、勤務を監察する役職を置くことが一般的であった。

注)宝永四年というと、富士山が歴史上最後の大爆発を起こした「宝永大噴火」があり、宝永山が出現。江戸の町にも降灰し数センチ積もった。

安永八年(1779年)
金次郎 20俵 二人御扶持 作事役

注)「本荘藩分限帳第八巻」より。
注)作事役とは 建築・修理などの工事を受け持つ。

等の名が見える。

注)これ以降、明治時代までの分限帳の記録より羅列したものは下記サイトで。
『私のルーツ探索(6)史料編・古文書④』


幕末の文政年間、九代政恒公代に渕名孫三郎が作事奉行として西目干拓の大事業を成し遂げたことは余りにも有名である。

注)孫三郎の作事奉行期間 文政11年~天保4年(1828年~1833年)
これは、西目役場跡地にある孫三郎の碑にも詳述されている。


現在、潟端の町役場の所に

「文政十一年戌子年、西目郷新田開発掛、六郷兵庫頭様御家来渕名孫三郎・耕雲斎茂林栄種居士 元治二年乙丑年三月建立」

と刻まれた記念碑が建っている。

この孫三郎は学もあり、なかなかの先覚者で、干拓に当たり、その金主として本荘古雪の豪商鈴木七郎右ヱ門を選んだ。

七郎右ヱ門は熱心な佛教信者なるを知り、自分でも数珠を爪操(つまぐ)りながらじゅんじゅんと因果応報の理を説き、遂にこれを説得したという。

七郎右ヱ門はこのため全く私財を失なうことになり、以後、藩より毎年廩(くら)米百八石を給されるようになった。

孫三郎は更に本荘の内山に杉苗を植林させ、また桑を植えて養蚕を奨励した。
漆を植えさせたりしている。

西目潟干拓の前には、この潟に子吉川の水を俵巻(地名)から導入して港を築こうとする遠大な計画を建議している。

鎖国主義の徳川政権下に、藩としては身の危険を感ずるということが一再ならずとして、時には孫三郎を危険人物とみなすこともあったと記録に見えるほどである。

注)渕名氏の家臣 蒲田の木内幸家に秘蔵の古文書があると言うが、古い年代のものはほとんど無い。

文化(1804年~1818年)・文政からのものが多く、主として、俳諧関係のもの。
恐らく、文化時代、又はそれ以前に火災があったものと思われる。


                             今日はここまで

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《これまでの目次》


私のルーツ探索(1)祖母淵名家                2012.08.24
私のルーツ探索(2)全校生徒で演じる淵名孫三郎とは?   2012.08.27
私のルーツ探索(3)淵名孫三郎の碑                   2012.09.29
私のルーツ探索(4)室町時代の淵名氏は祖先なのか?   2012.08.31

『私のルーツ探索(6)史料編・古文書①』        2013.09.07
『私のルーツ探索(6)史料編・古文書②』        2013.09.11
『私のルーツ探索(6)史料編・古文書③』         2013.09.11
『私のルーツ探索(6)史料編・古文書④』          2013.09.11