私のルーツ探索(6)史料編・古文書①
私の祖母の祖先・渕名家について、今まで調べたことは下記の私のブログ『私のルーツ探索(1)~(4)』に記入していますが、今回は、更なるルーツ探索です。
★
私のルーツ探索(1)祖母淵名家 2012.08.24
私のルーツ探索(2)全校生徒で演じる淵名孫三郎とは? 2012.08.27
私のルーツ探索(3)淵名孫三郎の碑 2012.09.29
私のルーツ探索(4)室町時代の淵名氏は祖先なのか? 2012.08.31
★
今回(2013年8月)の帰郷(由利本荘市へ)の主目的は、墓参りもありますが、私のルーツ資料と疑問点に関する資料の探索でした。
先ずは、田舎の仏壇の上に茶封筒を新発見。
父方の祖父の祖先と祖母の祖先に関してのものでした。
下記に掲載したのは、祖母の祖先・渕名家に関しての一部です。
★
尚、この目録にある古文書80点は、由利本荘市が保管しています。
.
,
,
,
,
,
,
,
,
,
,
,
,
,
,
,
,
,
この目録の一部を西目潟開発を主に抜粋してみました。
右の最初の行(No.1)にはこう書かれています。
「天保四年九月 兵法伝記 神蔭流ー心影流兵法伝記(究理の巻)
鹿島神伝十四代六郷真左希より淵名粂吉宛」 巻物 丈二十七尺 軍事(兵法)
以下、No.6までが兵法書です。
「吟味霊剣伝」(鹿島神伝兵法)、「直心影流兵法目録」等。
No.7 「安政六年九月 奉願上口上書之事 潟向村重左衛門ほか二十名より渕名孫三郎宛・西目潟開田について手当割当分の軽減願・・・図面付・・・
No.8 「元治二年三月 渕名孫三郎&佐藤重左衛門石碑(写) 両居士の碑文 田頭十二名・世話方二名 連名」
(注)この石碑については、下記の記事で書いています。
『私のルーツ探索(3)淵名孫三郎の碑』
No.17 「(時期不明) 発信受取人不明 赤穂浪士討入りの一部 手習い」
No.22 「(時期不明) 開田の持分個人割当の明細 三十六万坪 西目潟惣円 内三十万坪田積之分」
No.27 「(時期不明)十●月 渕名孫三郎 工事に関する物品の控 針金、釘等」
No.28 「(時期不明)九月 工事の控 (以下省略)」
No.46 「(時期不明)西目潟開発についての雑用メモ (以下省略)」
No.55 「明治二十二年十月 答辞(原稿) 院内簡易小学校釜台分教室詰授業生渕名孫三郎 校舎新築落成式の答辞」
No.70 「(時期不明)七月 本荘家中渕名孫三郎より松前家中吉井慎五郎宛 漆苗木買入れのこと、縁談などいろいろ」
★
次は、1872年(明治5年)編製の『壬申戸籍』(じんしん戸籍)と同年、本荘県から賜っていた家禄(かろく)を新政府に奉還する為に作成した古文書『家禄調』です。
☆
☆
この家禄調の一番左端に、渕名孫三郎の禄高が書かれています。
「同 拾石八升壱(次からは読めない) 同 渕名孫三郎」
この家禄調作成の意味
これにより、本荘縣・亀田縣が成立。但し、同年11月、秋田縣に統合された。
政府でも、明治6年(1873)より、家禄奉還を願い出た士族には就産資金や公債を保証、荒蕪地・山林等の格安払下げなどの制度を設けて士族の救済を図る。
当時の武士階級は約194万人を数えたが、この制度が廃止(同8年)されるわずか2年の間に、約13万5千人もの士族が家禄を奉還したといわれている。このとき払い下げられた土地は約8万5千haにも達した。
(参考)明治政府のとった士族の失業対策『士族授産』
★ ★ ★
時間切れで、今日はここまで
m