日系人強制収容所とFEMA


自民党の公約にもあるFEMAとはどんなものかは、1941年12月の太平洋戦争勃発後の日系人強制収容所にみることができます。

と言っても、オバマ大統領の目指す強制収容所は、こんなものじゃなく、生きては出られないシステムになっています。

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さて、それでは、日系人強制収容所とは、どんなものだったでしょうか。以下は、米国版歴史再検討ジャーナルの研究論文より一部抜粋。
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太平洋戦争開始から数ヵ月後、FBIは、日系人である地域社会のリーダー、仏教や神道の司祭、新聞記者、日本語や柔道講師、労働者のリーダー達を逮捕抑留。

日本人社会での何らかのリーダーは、瞬く間に日本人社会から消える。

男性達は予告なしに連行されたから、家族は何故消えたのかを知らず。この逮捕者の大半は密かに全国の刑務所に移送される。

FBIは、抑制策として、彼らの銀行口座の凍結、密輸の押収、旅行制限、夜間外出禁止令、その他のことでも徹底的に制限した。

家族がそれを知ったのは、数年後。

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Japanese Americans Sent to Concentration Camps

1942年2月19日、フランクリン・ルーズベルト大統領は、大統領命令No.9066(Executive Order No. 9066)に署名。西海岸の日系人の強制収容を決定。

一ヶ月後、同大統領は、大統領命令No.9102で抑留キャンプを運営する

『全ての日本人は、外国籍や米国籍を問わず、1942年4月7日(火曜日)に上記指定された地域から避難する』(全ての日系人は収容所に送還する)

『避難者は、携帯用寝具と手に持てるだけの荷物を報告するように』

つまり、2月19日から4月7日までの期間に、資産を全て処分せよということ。
日系人はそれまで築き上げた農場や店舗や家屋、会社などの悉くのものは、足元をみた米国人によってただ同然に買い叩かれました。

(戦後調査で分かったことは、収容所に持ち込まれた手荷物の80%は、盗まれたか売却されていた)、

カナダの西海岸に住んでいる23,000人の日本人(その4分の3はカナダの市民だった)も検挙されました。

それらは、戦争が終わってから三年半後、拘留されてから7年後の1949年3月迄、ブリティッシュコロンビア州(カナダの南西部の州)に帰ることを許されませんでした。注)カナダの収容所の冬季気温はマイナス30℃で最悪だった。
 
他方、米国はブラジル、パラグアイにも、この日系人強制収容プログラムを強制。アルゼンチンとチリは、凄まじい米国の圧力にも拘らず、戦後を見据え、外交関係が壊れるとして同意せず。

米国の西海岸から日系人の除去は軍事的に必要とする主張は、論理的矛盾にはらんだものでした。

カルフォルニア州に住む日系人は約1%にすぎず。
処が、ハワイの場合、人口の38%は日系人

ハワイに在住の日系人強制収容所に入れられることはなかったのです。ハワイは、西海岸よりも日本軍による侵略のリスクが遥かに大きいにも拘らず。、。

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全米10箇所に急遽強制収容所が作られ、約12万人の日系人が収監されました。

Colonel Karl Bendetsen, who directly administered the program, declared: "I am determined that if they have one drop of Japanese blood in them, they must go to camp."

「日本人の血を一滴でも持って居る場合、彼らはキャンプに行かなければならない」

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砂漠や荒野の中とか、人里から程遠い場所で、バスや汽車で日系人は輸送されました。

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In some assembly areas, families were assigned to rudely converted horse stables where the stench became oppressive in the summer heat.

いくつかの集合区域で、家族は、粗雑に変換された競走馬飼育訓練場を割り当てられました。そこでは夏の暑さで耐え難き悪臭が漂います。

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ただ一つの備品は、収容者が自分が組立出来る家具を除いて、ぶら下がった電球だけでした。

The only fixture was a hanging light bulb, except for whatever furniture the inmates could construct for themselves.
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ある収容所では収容者数十人は撃たれ負傷。8人は警備人によって殺されました。更に、日本人は理由もなく時々残酷に殴られ重傷を負いました。ツールレイクキャンプでは、警備員がバットで受刑者を殴りました。

カルフォルニア州マンザナールキャンプでは、兵士が抗議デモに対して催涙ガス弾を投げ、一人が即死し、もう一人は後日死亡。9人が負傷しました。

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多くの日系人が、絶望で自殺したり、過酷な環境で死亡しました。

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驚くべきことは、日系人を強制収容することを強烈に支持したのが、アール・ウォーレン氏。

リベラルとして名声を博していた彼は、日本人を根絶し、監禁すべしという国民感情を主導。

彼はカルフォルニア州の司法長官として、彼の政治キャリアを促進(知事に立候補)するために、日系人を人種差別する国民感情を盛り上げました。

彼は、外国人嫌いの組織「金色のウェストの土地っ子」の顕著なメンバーでした

「土地っ子」は「黄色の日本人の平和な侵入者およびそれらの白い日本の共謀者からカリフォルニアを保存する」ために働きました。

ウォレンの弁護士としての驚愕の論理では、日本人がここまで不忠実な行為を犯していなかったというまさにこの事実が、今後反米破壊活動を行う意図だった証明であると主張しました。

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ツールレーク収容所

厳寒地だが、断熱材はコールタール紙を外壁板に貼っただけ。
それも縮んでいる。

14戸の建物のブロックの中心にあった非加熱の便所に到着するために、居住の仮小屋を出てから雨や雪の中を歩いていかなければなりませんでした。

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 (写真)外部との面談日。
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人種差別的なこの日系人の強制収容の最も重要な側面の一つは、この強制収容の提唱は、ファシストや右翼や軍国主義組織の連中ではなかったことです。

この提唱は、自由と民主主義を守ることで知られているある著名な男の提唱によるものでした。

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私見
米国の唱える自由と民主主義とは、白人社会にだけに通用するものですね。

何となれば、敵国であったドイツ人やイタリア人やその二世は、このような強制収容所に一切収監されることは無かったのですから。

尚、この日系人強制収容所の姿が、今、オバマ大統領が準備しているFEMAの序の口版ですね。

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(注)戦後、収容所から解放された日本国籍の日本人の90%は、日本に帰国した。全財産を奪われたから、生活が出来なかった故。
 
(※)
安倍:日本版FEMA
(参考)
(Federal Emergency Management Agency of the United States)

(記事抜粋先文献)
『World War II West Coast Camps for Japanese-Americans』

From The Journal of Historical Review , Spring 1981 (Vol. 2, No. 1), pages 45-58.


(画像借用先ユーチューブ』

(参考)
山崎豊子著「二つの祖国」
映画「二つの祖国で・日系陸軍情報部」予告編