昔の同志社大学での単位の取り方

 
オムロン立石義雄名誉会長の私の履歴書の中で、同志社大学を卒業する単位を貰うために、教授宅を訪問したとの記述があり笑ってしまいました。
 
同じ時代、昭和40年前後の同志社大学では、卒業単位が不足すると必殺の技は
『教授宅に一升瓶持参で単位を貰いに行くこと』でありましたからね。
 
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運動部の連中のもう一つの必殺の技は、『答案用紙に手形を押すこと』でした。
 
試験には墨汁と筆持参ですね。無論、解答欄に手形以外の問題に対しての記述はありません。
 
但し、「私は○○運動部です。我が大学に貢献しました」との添え書きで実績一覧を記入しますね。これで単位を貰えたのですから。
 
特異なケースとしては、昭和40年代後半、後輩の話では、手相を研究している教授がいて、解答欄に墨で自分の手形を貼り付けるだけで単位を貰えたとか。
 
尚、この一升瓶のことは、2006年12月12日の私のブログで書いていましたね。
 
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『非哲学的哲学の道』 
昔はどんな道か?と問われると「卒業への道」で御座いました。
もっと具体的に言うと「酒瓶かついでの道」で御座いました。

友人のD大相撲部の主将H君と共に、一升瓶一本をかついで、この哲学の道の土手下に住む△△教授宅を訪問。

「何卒、単位をください!!でなければ、卒業できないんです!!」
 
 
注)同じこの土手下に立命館大学末川博名誉総長の自宅もありました。
 
 
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立石義雄氏の義母とお会いしたことを書いた私のブログ記事は、
 
私の履歴書・102 《会社に就職した理由》
 
 
 
以下、新聞記事の本文
 
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立石義雄 オムロン名誉会長(2012/11/08付「日経新聞」「私の履歴書」より一部抜粋
 
薄氷の卒業 「英語が危ない」直談判 米国赴任を控え武者震い
 「危ないな」。卒業の最後の関門、一般教養の英語の答案用紙を出すと、不安が心の中でどす黒く渦巻いた。こういうときの私の勘は鋭い。

 卒業の「合格ライン」は60点。59点ならあえなく留年。留年は許されない理由があった。父の会社、立石電機に就職が決まっていた。しかも父から初代ニューヨーク駐在員として赴任するよう申し渡されていた。英語のせいで卒業が危ういというのに、米国で仕事をしろとの厳命だ。(中略)

 いよいよ「英語が危ない」。そこで先生に直談判を試みた。英語の担当教官は田中彌市郎先生。京都・四条通りの大丸の近くで今も盛業中の日本人形の老舗、「京人形 田中彌」のご子息だ。

 京都市内のご自宅に伺って、私は率直に切り出した。
「先生、英語の点数が心配なんです」。さらに就職が決まり、米国に赴任することも打ち明けた。「アメリカで英語を一生懸命勉強します」

 温厚な中年の先生だが、立場上「よし、分かった。任せておけ」とは言えない。
不安をかかえたまま、「よろしくお願いします」と頭を下げて帰ってきた。
 
ドキドキしながら結果を待った。英語の成績は「可」だった。無事卒業である。
後で点数を聞いてみると、ぴったり60点。

 陳情が奏功したのか、実力で勝ち取った点数なのか。それは確認していないけれども、確かめるまでもない。先生の恩情だったのだろう。
 
お願いに行ったときは手ぶらで行ったのだが、改めて一升瓶を持参してお礼に伺った。田中先生は「がんばれよ」と励ましてくださった。田中先生は同志社を退職された後、お店を継がれた。