『誓いのコイン』で知る日本の心
戦後の日教組による自虐思想の持ち主の皆様、ある宗教のようにあなたがその呪いから解き放たれていないのは、あなたが日本人で、しかも心優しいあなただからです。
その心優しいあなたは、かって学校で習った日本の歴史はさておいて、改めて自分で本当の歴史をネットで調べてみませんか?
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さて本題へ
日露戦争が行われた明治37年2月~38年9月、戦場となった中国大陸の旅順や奉天などから約7万人のロシア兵捕虜が全国29か所の収容所に送られました。松山には全国初の収容所が設けられ、のべ約6千人のロシア兵捕虜が収容されました。
将校は市内の自由散歩や一戸建て民家での生活が認められ、大街道にあった芝居小屋での観劇や道後温泉に入浴も行われました。
さて、下記の画像は、ニコライ2世の肖像が刻印されたそのコインで、その中には硬い金属により片仮名で2人の人物名が彫られていいます。(右の画像)
若いロシア軍少尉『コステンコ・ミハイル』と日本の看護婦『タケバナカ』ですね。
この二人の物語は、日本がいかに国際条約を守っていたかを象徴するものです。
無論、やさしい日本の女性の心も。
中村時広 『誓いのコイン』より
4月9日、東温市の坊ちゃん劇場第6作、「誓いのコイン」の上演がいよいよスタート、その初日公演に行ってきました。
松山市長時代に堀之内公園から見つかった一枚のロシア金貨とそこに刻まれた悲哀の物語のメッセージ、昨年3月に坊ちゃん劇場関係者とお会いした時、この話をミュージカルにできませんかと持ちかけたところ、話はトントン拍子で進んでゆきました。
それを受けて松山市では上演期間中、坊ちゃん劇場にその金貨を貸与することを決定、ミュージカル鑑賞後に実物を見ることができるよう仕掛けをして市長職を去りました。
そんな経緯がありましたので、本当に楽しみにしていたのです。
現在の堀之内公園には多くのバラックが建設され、日本に移送されたロシア人たちの負傷治療や日常生活の場となったのです。
当時の松山市の人口は34,000人ほど、そこに延べ人数で6,000人を超えるロシア人が滞在していました。
鎖国から解き放たれて国際社会に一歩を踏み出した日本人たちは、国際条約をしっかりと守るべく、交戦国捕虜に対する人道的扱いには細心の注意を払いました。
昨年1月、堀之内公園整備工事の最中に採取された残土から1枚の帝政ロシア時代の金貨が発見されました。
1人はロシア名で、「コステンコ・ミハイル」、当時の新聞記事の中に彼の名が取り上げられていました。
絵画を趣味とする若いロシア軍少尉で、彼の描いた水彩画が松山の人たちに贈られたという美談が紹介されていました。
もう1人は日本名で、「タケバナカ」、この方も赤十字の看護婦さんとして、当時の新聞紙上に取り上げられていたのです。
さらなる後追いについては、故人のプライバシーにも関わりますし、名前の刻まれていた2人が男女ということにも鑑みて、公式調査を終結することにしました。
ですからここから先は、あくまでも想像の世界の話です。
捕虜として敵国の地で過ごすロシア人の目に、献身的な治療を続けてくれる赤十字の看護婦さんたちはどのように映っていたのでしょうか。
寂しさと不安を抱えながら日々を送る彼らに、一時の安らぎを与えてくれる「天使」のような存在だったと思います。
そこに国境・民族を越えたほのかな恋心が芽生えたとしても、何ら不自然なことではありません。2人が互いに惹かれあってゆく気持ちは、周囲の噂に上ったものと思われます。
しかしながら、時代がそれを許すはずもなく、「タケバナカ」はある日突然看護婦の職を解雇されてしまうのです。
それは2人にとって永遠の別れの瞬間、最後の夜、1枚のコインに互いの名を刻み、堀之内の泉に投げ入れました。
100年の時を超えて姿を見せた1枚のロシア金貨は、国境を越えて芽生えた2人の愛、そして時代に引き裂かれ、結ばれることの許されなかった切ない思いの物語を、我々にそっと語りかけているように思います。
参考)坊っちゃん劇場ミュージカル「誓いのコイン」ロシア公演へ 愛媛
2012.6.29 21:53
※ 書庫『 日本の心・世界の声 』