私のルーツ探索(4)室町時代の淵名氏は祖先なのか?

 
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私のルーツ探索(1)祖母淵名家
私のルーツ探索(2)全校生徒で演じる淵名孫三郎とは?
 
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私のルーツ探索(4)室町時代の淵名氏は祖先なのか?
 
私は『西目潟今昔』( 池田正治著)の一節を読んでアレッ!と思いました。
  以下、この文中より一部抜粋
 『 本荘藩士の淵名孫三郎 旧鮎川村蒲田(がまだ)城主の子孫といわれる 』
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そこで、もう一度、戦国時代の淵名で調べてみました。
そこで改めて『そうか!そうだったのか!』と思える画像を発見しました。
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この画像では赤い二本の矢印があり、左側が鮎川氏の山崎館で、右が淵名氏の蒲田館と説明されている。
と言う事は、鮎川氏と淵名氏は両輪となって国を治めていたことを意味する。
これで淵名氏が家老であると看做すことが出来る。
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この画像で、父が私の幼少の頃(1950年前後)「祖先は代々家老であった」ということを理解出来ましたね。
 
私は、てっきり本荘藩(六郷藩)の家老とばかり思って、これまで本荘藩の家老の名前をひたすら探していたのでした。
 
さて、その鮎川氏とは、『由利物語』の序文を要約すると以下の通り。
 
鎌倉時代由利地方(秋田県南西部)は豪族由利氏が平定していた。 注)由利地方とは、地図の左下のピンク色の地域。
 
然し1324年(正中元年)に由利氏の当主由利仲八郎政春が庄内山形県の鳥海弥三郎に攻められ自害すると、由利地方は無統治状態になり横行略奪が相次いだ。 
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そこで室町幕府の関東での出先機関鎌倉公方を補佐した関東管領扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の家宰(家老)太田道灌信濃国の小笠原一族由利に派遣した
 
由利に信濃(長野県)の小笠原一族が下向したのは応仁元年(1467年)。 (注)下向とは⇒げこう、格下の土地に移動すること
 
下記は、信濃から由利地方に下向した小笠原一族。
・小笠原大和守重挙(仁賀保町院内に赴任し仁賀保氏を称す) 
・海野弥太郎(西目町潟保の斎藤家の名跡を継ぎ潟保氏を称す) 
・子吉修理進(本荘市子吉川下流域に居) 
・赤尾津孫八(岩城町高城山に居して小助川氏とも言う) 
・羽根川孫市(秋田市下浜付近に居し、羽川氏とも言う) 
・芹田伊予(仁賀保町芹田辺りに居) 
・岩屋右兵衛(大内町岩谷に居) 
・打越左近(本荘市北打越に居) ・玉米刑部(東由利町館合に居) 
・石沢孫四郎(本荘市石沢に居) ・下村信濃守(東由利町蔵に居) 
鮎川小平太(由利町鮎川に居) 
・滝沢刑部(由利町前郷に居、由利氏の末裔) 
・大井義久(矢島町に居、矢島氏とも言う) 
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秋田の由利地方にきた14人の中に鮎川氏がおり、淵名氏は恐らく鮎川氏の家臣として信濃からやってきたものと思われる。
 
他方、『由利十二頭通史』では、鮎川氏は1450年には既に由利地方に下向していたことになっている。
注)由利十二頭とは、由利地方を小笠原一族12人が分割して統治したことからくる。
 
由利十二頭のことが確かな記録にみえるのは宝徳二年(1450)のことである

  「由利十二頭記」にみえる十二頭は「打越孫四郎宮内少輔、滝沢刑部、小笠原大膳大夫義久(矢島)、子吉兵部少輔、赤宇津孫次郎道益、小笠原信濃守助兵衛、小笠原大和守仁賀保重挙、石沢作左衛門、岩谷忠兵衛内記、下村彦六蔵人、潟保外記、鮎川筑前」の十二人である
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私見)『由利物語』では、小笠原一族が下向したのが応仁元年(1467年)とすると、この年に『応仁の乱』が起きている。故に、この年とするには無理がある。
 
小笠原一族が全員一気に由利に来たとは思われない。先ずは尖兵隊として家臣が着任し、その後に本隊が着任という形ではないか?
 
だから1450年に小笠原一族の一部は既に由利に入っていたことになる。

では1467年とは?
 この年は全部隊の本陣が由利に着任したことを確認した年と考えられる。これを以って、小笠原一族が下向(由利地方に着任)したとも言える。
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 そして鮎川氏は、鮎川の地で先ずは蒲田集落にあったと推定される「根小屋」(鮎川氏館)を作り、次ぎに山城の「詰の城」山崎館(やまざきやかた)を建てそのエリアを統治していたが、着任から100年後に風雲急を告げ、1573年(天正元年)新たに山崎館の西隣に、要害として淵名豊前守卜春斎が蒲田館(がまだやかた)を築いた。
 
その風雲急を告げることとは、矢島満安氏が留守中、仁賀保氏を中心とする由利衆に城を奪われ、妻の実家である西馬音内(にしもない)小野寺氏を頼ったが自害したことである
 
かっては同じ由利12頭の一人・矢島氏の先鋭隊として動いていた鮎川氏矢島氏が滅びると後ろ盾を失い、他の由利衆からの攻撃を受け滅びたに違いない。
 
鮎川氏に関して、歴史から姿を消すのが当にこの時期。
当然、その家老職であった淵名氏も歴史から消える。
 
故に1590年奥州仕置時の由利衆の中に鮎川氏の名が見えないのは当然である。 注)奥州仕置とは⇒1585年秀吉関白となり全国統一。後、天正18年(1590年)秀吉の関東から奥羽にかけての諸豪族の処理。これにより秀吉は全国を平定する。
 
尚、鮎川氏の子孫は最上氏に仕えたが、最上義光により改易されたとも伝えられているから、よしんば淵名氏も鮎川氏に従って最上家の家臣となったとしても、鮎川氏と同じく改易させられ、浪人の身になったものと思われる。
 注)改易(かいえき)とは ⇒ 所領や家禄・屋敷没収、士籍除外
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以降淵名孫三郎が生れる1788年までの約200年間は全く空白で以下は私の推測。
 
彼の祖先は信濃国でも城築の石垣などを設計する一種の土木技術者。そしてそのノウハウが代々引き継がれていった。
 
無論、鮎川氏の山崎館や淵名の蒲田館なども淵名一族の設計。
そして江戸時代に仕官して本荘藩(六郷藩)の家臣となり、土木技術者として藩内で名を馳せていた。故に、西目潟の干拓に設計者として乞われたのではなかろうか。
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 今夏2012年8月11日、象潟での昼食後、鮎川の蒲田館の跡地に向かいました。(住所)由利本荘市東鮎川蒲田前62 
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蒲田館は鮎川右岸の丘陵ピーク(標高100m 比高80m)に位置する山城で、主郭から北西側に延びる尾根と主郭北・南側に郭を配置した単郭の城郭。
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蒲田館の東方には鮎川氏の「詰の城」山崎館がありますが、蒲田館は山崎館の西方を守備する要害と考えられる。
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築城時期は1573年? 天正年間(1573-92)の館主は由利十二頭鮎川氏の被官淵名豊前守卜春斎とされる。
淵名氏は室町期にこの地に入部した小笠原氏族とされますが、由利十二頭鮎川氏に属したという以外、事績は不明。
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 上記画像は八幡神社参道。蒲田館の大手口と考えられます。
ここから20mほど上がると、蒲田舘の跡地に八幡神社が鎮座しています。
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然し、この急な石段を息子は一気に登るから私も一気に登りました。心臓と肺がパンクしそうでしたね。
 
社は風雨豪雪による陳腐を防ぐ為に、囲われていました。
ここで、恐らく我等の祖先であろう淵名氏の御霊に二礼二拍手一礼。
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神社の右横には、古峯神社、三峯山須賀神社三宝荒神の石碑。
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尚、下の鳥居の横には、庚申塔天満宮、田神の石碑。
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  母の話によれば、本荘市(現、由利本荘市)が、『本荘市史』を編纂するにあたり、元本荘市長の佐藤憲一氏(故人)が我が家から一冊の一種の我が家の史書を持っていったそうです。
 
後、佐藤憲一氏は、『本荘市史』(全12巻)の各巻が出来上がる都度、1巻6千円程の領収書持参で持ってきました。昭和の終わりから平成にかけてでしょうか。

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或る時、母は憲一氏に訊ねたそうです。
「お貸ししたものはどうなっていますか」
憲一氏は、「まだ全巻完成していないから返せない」とのこととか。
 
それは次兄の話によれば、表紙が緑色(恐らく黒紐で綴じている)でサイズはA4より小さめなものだったそうです。但し、次兄もそれを読んだことはない。

結局、我が家の史書は返らず。
月日が経ち、佐藤憲一氏は亡くなり、母も亡くなりました。
 
果たして、由利本荘市の名誉市民となられた故佐藤憲一氏の残した蔵書・資料の中にありますかどうか。もしも在りましたら是非見たいものです。

(追記1)この件に関しての生前の母のぼやき
我が家の史書を持って行ったままで返さず。
それに本荘史書を何巻も買わされて。
この史書代で何万円払わされたことか。
この史書で我が家の祖先の記事はたった二行のみ。
 
(追記2)
2014年、故 佐藤憲一氏の蔵書や資料を保管している由利本荘市の図書館で調べて貰いましたが、表紙が緑色の我が家のルーツ書は無かったとの回答でした。残念です。捨てられてしまったのです。

つづき
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私のルーツ探索(5)郷土歴史家の書く渕名家 2013.09.16
 
(参考)