私のルーツ探索(2)全校生徒で演じる淵名孫三郎とは?

 
初めてこの書庫をご覧になる方は、『私のルーツ探索(1)祖母淵名家』からご覧下さい。       (↓)
 
 
さて本題、
 
私のルーツ探索(2)全校生徒で演じる淵名孫三郎とは?
 
我町でADSLが開通した2003年春、インターネットで秋田県の淵名家を調べました。
 
そこで分かったこととは、戦国期、由利地方には戦国大名はおらず、由利十二頭(12人の一揆結合の形をとっていた豪族衆の集まり)が由利地方を支配していましたが、その中の一人、鮎川氏の家臣に淵名氏がいたのです。但し、詳細は不明でした。
 
更に、この淵名氏と、江戸後期の淵名孫三郎とは結びつく文献が無いため、ここで探求の手を休めました。
 
他方、『本荘・由利 ふるさと観光ガイド』で淵名孫三郎の碑の記事を発見。
 
2012年の今春、由利本荘市西目総合支所に淵名孫三郎の碑の明確な所在地をメールで問うも音沙汰はありませんでした。知らないからでしょうか。
 
石碑の住所を西目町遺跡欄に書いてはいるが、やはり江戸時代のことですから忘れられてどこかの草むらで漬物石の如く転がっているに違いないと思いました。
 
偶々由利本荘市西目の方のブログの一般記事のコメント欄で、淵名孫三郎の碑の在りどころを問うてみました。
 
ここで予期せぬことが起きました。
碑の在りどころは分かりませんでしたが、同じ記事のコメント欄に『あとたら』さんの貴重な投稿が有りました。
 
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『あとたら』さんのコメント
 
昨年の小学校の文化祭で、淵名様の偉業を題材にした劇を全校でやったんです。
長男は淵名様役を演じたので、興味を持ったのです。
 
うちの下の「よそべえ(惣兵衛)のお爺さん」が歴史を教えてくれたそうです。
次男は「黒松(木)」の役でした。(苦笑) 2012/06/14(Thu) 23:24 
 
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これにはびっくりしました。
淵名孫三郎が全校生徒が演じる劇になっていたのです!
早速、西目小学校で検索しましたら、劇の内容が掲載されていました。
 
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イメージ 1
 
あすなろ発表会 
西目小学校ミュージカル『西目潟干拓物語』
 
この淵名孫三郎を取り上げた理由は、
 
『今年の三月十一日、思いもよらない大災害が起こりました。
 
当たり前だと思っていた日常が、実はとても大切な一日だと分かったとき、この西目の地を干拓してくれた人々への感謝の思いがあふれてきました。
 
そして、今、私たちにできることは、このあすなろ発表会を全校みんなでがんばって成功させることだと気づきました。
今日は、今もなお、地域の復興のためにがんばっている方々を思いながら、力一杯表現します』
 
テーマ 『受けつごう!! 昔の人々の想い・・・そして未来へ』
 
まだ江戸時代だった頃、 
この田んぼのある辺りは、みんな西目潟っていう潟だったんだどや。
お百姓さんたちはみんな貧しかったそうだ。
この西目潟を干拓して田んぼにしたら、と干拓工事が始まったんだど。
んでもな・・・
 
平成23年11月19日(土) 午後9時開演
◆会場 西目小学校体育館
◆演出 演技指導 劇団 濤
 
注)出演者 1年生から6年生の328名
一場(6年生)  プロローグ
二場(4年生)  龍神の怒り
三場(1年生)  淵名様の知恵
四場(2年生)  村人の苦悩
五場(5年生)  お春の決意
六場(6年生・はまなす太鼓)  僧侶と龍神
七場(3年生)  春風ふいて
八場(6年生・全校)  エピローグ
 
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その中で演じられている淵名孫三郎とは?
 【西目潟と干拓 西目潟今昔】 池田正治 著
 
今から六、七千年前、いわゆる縄文海進という現象があって、海面が現在よリ五~七メートル高くなった時期があった。
 
その時は現在の水田地帯の大半は海面下にあった。その後の海退によって漸次水没地帯も陸地と化したが、そうなるにはかなりの年月を要したことであろう。

弥生時代になって人々が稲作の技術を得てから、この沼地の周辺を拓いて稲作りに精を出したことと思われる。
 
時代は移って江戸期の末頃、東西十三町、南北十町余りのこの潟を干拓しようと考えた地元の農民がいた。佐藤重左衛門である。
 
彼は本荘藩士の淵名孫三郎《旧鮎川村蒲田城主の子孫といわれる》を訪ねて知恵を借り、本荘古雪町の富商鈴木七郎右衛門の出資を得て干拓事業を始めた。

淵名は専ら設計の任に当たり、人夫の督励その他実際の仕事は佐藤、資金は鈴木というふうに仕事を分担して、文政十一年(一八二八)に着工。
 
完成までは六ヵ年を要し、開拓地は約九十六町歩(950,400㎡)、工費は三千五百二十三両を費やしたという。 
(参考)約九十六町歩(950,400㎡)とは東京ドーム(46,755㎡)203個分の面積 
  
干拓した場所)西目駅の東南に約五百ヘクタールの美田が広がっているが、このうち北側約百ヘクタールの潟を開拓。(地図↓)
イメージ 2
 
干拓の方法)海風により河口を塞がれ、排水が思うに行かず。
そこで土俵を積み上げ土堤を築き、これに柳などを植えて自然の流れをつくることに成功した。他方、何者かの妨害や洪水で堤防が流されるもそれを克服。

(注)資金は鈴木七郎右衛門が単独出資。このため全財産を失ったという。 
 
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その他、淵名孫三郎が興した事業
 
【西目潟に港を築く為、子吉川の流れを俵巻から引こうと計画】
 
注)俵巻(地名) 本荘市街から国道108号線(矢島街道)を矢島に向かうと由利高原鳥海山ろく線子吉駅前を過ぎてから1kmちょっとで「玉ノ池信号」。その南東側。
(俵巻の地図)
  
【西目での養蚕と織物事業の開祖】
 
天保14年(1843)淵名孫三郎、今野半右衛門等協力し、自費を以って桑の苗木を伊達及び米沢地方より購入し、殊に今野氏自ら栽培と養蚕をなし、且つ教師を伊達より碑し織物に従事したるを以て養蚕と織物の創とす。
 
 
つまり、淵名孫三郎とは、江戸末期、貧しかった西目集落の生活の向上に多大な貢献をしたということですね。それ故に、孫三郎の碑が建った訳です。
 
(参考)
あきた(通巻232号) 1981年(昭和56年)9月1日発行
本荘・由利 ふるさと観光ガイド 淵名孫三郎の碑
 
               ☆
 
 
そういえば、台湾統治時代に、『台湾で愛された日本人、八田 與一氏』が台湾に巨大なダムを造って、台湾農業を振興したことが思い出されました。

このユーチューブは何度も削除されておりましたので改めて別にユーチューブを貼り直しましたものです。


このような、日本人の功績をよく表した映像を我ら日本人に見せたくない集団がいるからでしょうか。
 
 
            つづく
続編は、
私のルーツ探索(3)淵名孫三郎の碑