私のルーツ探索(1) 祖母渕名家①

 
私の祖先について、幼少時代、父が酒に酔った時の口癖でしか知らなかった。
 
それは、父は幼い頃『石脇のぼんぼん』と言われて育ったということと、父の母方の先祖は室町時代から代々家老職であったということ。それと開拓をして藩に貢献したことぐらいである。
 
「小さい頃由利橋の欄干に立って立小便をしたもの」
子吉川の河口付近を赤ふんどしで何往復も泳いだもの」
鳥海山には何度も登ったが一度予期せぬ豪雨に襲われ死にかけた」
「若かったなら由利原を農地に開墾するのに」とは酔った父の口癖であった。
 
我等家族は「また親父のダボラ話が始まった」とそれ以上聞く耳を持たなかったですね。そして私の反抗期が始まった中学二年生以降、ついぞまともに聞いたことはなかったですね。
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さて、父方の私の祖母(名前はユウ、父の母)の先祖のこと。
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昭和57年(1982年)父の葬儀の後のお斎(おとき、葬儀の後の会食)の席上、10歳年上のいとこの佐藤昌子さん(姓は結婚前、西滝沢生れ)がこんな話をしてくれました。
 
県庁に勤務する彼女が研修会の講師として日曜日に西目町(現、由利本荘市西目)に行ったとき、地元ではお祭りだったそうです。
 
「何の祭りですか?」と聞くと「渕名孫三郎を奉っての祭り」と言うのです。
「渕名孫三郎と言えば私の祖母の先祖ですよ」と言いますと、大変な歓待を受け、然も祭りの饗宴に招かれ、最上座のお膳に座らされたそうです。
 
後で分かったことは、何故彼女が祖先の渕名孫三郎を知っているかというと、彼女は祖母ユウと同居していたからなのです。
 
私が母から聞いた祖母のことと言えば、昔武家だから、家にいるときは常に和服できちんと正座し、それを母にも強要するのだそうです。
 
当時私の両親は本荘町で共稼ぎ。母は勤務を終えてから夕食の支度をし、更に夕食後の後片付けをして横になりたいものの、それさえ許してもらえず。
 
結婚早々、たまりかねた母の仲人への窮状の訴えが功を奏し、祖母と同居せずに済んだのだそうです。祖母は三男である父と住みたかったのでした。
 
それもそうですね。父が本荘中学を卒業してから秋田市師範学校に入ると、祖母は秋田市内に一軒家を購入し、祖父に構わず父と二人で住んだのですから。
 

祖父鉄之助が死亡したのが昭和9年9月9日。享年77歳。父24歳。

祖父の遺言は、家督並びに財産を三男の父に譲るというもの。
 
然し、父は墓は長男が守ることを条件にし、兄弟で財産を等分しました。

無論、父は、母と結婚するまでは、祖母と同居だったわけです。

それから母と結婚して早々、騒動が起きた訳です。
 
父方の兄弟が話し合い、祖母を交代交代で引き取ることにしたそうですから、その後の祖母は長男と同居。亡くなった時は次女松代(西滝沢、昌子さんの母)さんと同居していた昭和20年(1945年)でした。
 
他方、
私の母は、平成13年(2001年)亡くなりました。
父母の遺品整理のとき見つけたのは、昭和32年昭和36年?)と昭和40年代に発行された付箋が一杯ついた戸籍謄本二通と昭和50年代発行の祖父方の祖先を記事にした秋田魁新聞1ページ。
 
この新聞の記事は我が家の祖先を書いたもの。
処がそれから二年後、田舎の家から戸籍謄本と新聞が消えてしまいました。
父の机の傍に、ゴミのように広げておいたら、姉が片付けるために捨ててしまったと言うのです。
 
そこで、平成20年(2008年)市役所に行き、私の戸籍謄本を祖先に遡って10通発行してもらいましたが、残念にも父方の戸籍謄本は私がかって見た室町・江戸時代の祖先の名前が列記されている戸籍謄本とは違い、改めて書き直されたものでした。
 
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でも、この時に、祖母に関する戸籍謄本も数通入手できました。
そこで分かったこと
 
渕名孫三郎   1788年生れ 
  ↓
渕名三郎兵ヱ  1818年生れ
  ↓ 
長男 渕名孫三郎(妻、トヨ)
        1848年生れ
  ↓
長女 ユウ(夫、△△鉄之助) 
1873年明治6年)生れ 私の祖母
  ↓
三男 父 1911年(明治44年)生れ
三男 私
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(参考)江戸時代の名前
江戸時代では世襲名と言って当主が代々同じ名前を名乗ることがある。親子が同じ通称を使っていたことも珍しくない。文字通り「親の名前を継ぐ」。芸能の分野では現代も世襲名の制度が残っているものもある
 
 
この戸籍謄本を見て、うろ覚えだった渕名孫三郎という名前が明確になりました。
 
更に、この戸籍謄本により、江戸時代本荘藩の家臣として本荘町美倉町に住居していた曾お祖父さんが、明治28年12月に西目村西目一番地に本籍を移していたことが分かりました。(注)上記戸籍謄本の二行目
 
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他方、母の遺品の中に、渕名家の法事案内(故 渕名重海の七回忌)の手紙があり、改めて私が渕名孫三郎の血を引いていることが分かりました。
 
(参考)
渕名孫三郎⇒長男 重記(明治9年生れ)⇒長男 重海(昭和50年死亡)
 
(注)重海氏の子供は男子一人だけ。その男子には子供はいず、然も、その男子も2010年に死亡と言うことですから、孫三郎の直系は絶えました。
 
そこでネットで色々と検索してみましたが、諸々の記録には淵名孫三郎は六郷藩(本荘藩)の家臣と書かれてあるだけで、渕名家は室町時代から代々家老職とは書かれていませんでした。
 
これでは、私の幼少の頃、父が言っていた祖母ユウの祖先渕名家は代々家老職だったという話とは結びつかない。
 
                        つづく
 
 ⇒ 私のルーツ探索(2)全校生徒が演じる渕名孫三郎とは
 


(追記)2016.04.15(金)

昨日、2名の方が、「渕名重海」氏の検索で私のこのブログ記事を訪問している。
そこで私も「渕名重海」を検索してみたら以下の資料を発見。


タイトル 鳥類の肺気嚢の構造に関する研究 
著者....................渕名重海 [著]
資料の種別.....博士論文
授与大学名....東京大学
授与年月日....昭和41年11月14日
報告番号.........乙第1043号
学位..................農学博士

私見)渕名重海氏の住居は横浜市港南区であった。
私の縁戚の渕名重海が上記農学博士と同一人物と仮定すると、死亡が1975年(昭和50年)。つまり東大の博士授与の1966年(昭和41年)から9年後に死亡したことになる。もしも、農学博士の渕名重海氏の死亡時期と同じなら、同一人物ということになる。さて、農学博士の渕名重海の死亡時期をどう調べるか・・・。

(参考)祖父鉄之助の葬儀の時の写真
撮影日:昭和9年9月13日
場所:石脇三軒町