親父によく殴られた二年間
私の履歴書 幼少編
西滝沢小学校時代(2年生と3年生)の追記
《親父に殴られるのが子供の務めかも》
親父にはよく殴られました。
頭にこぶが二つ三つは出来ましたね。
五つぐらいのときもありました。
この頃は、クラスの誰かが頭にこぶを作って登校していました。
皆、悪さをして親父にげん骨をくらったのでした。
或る日のこと、夕飯の時刻を過ぎても遊んでいた私が恐る恐る帰宅すると、予期した通り、激しい親父のげん骨が飛んできました。
私は堪らず外に飛び出した裏の小屋に逃げ、カマスの陰に隠れました。
私は遊びつかれて直ぐに眠りかけましたが、母と姉が懐中電灯をかざして探しにきましたので、私は必死にちじこまって身を隠しました。
母と姉が去り、それからここ一時間弱経過後、再度母と姉が来て私を見つけました。恐らく最初の段階で見つけていたのでしょう。
それから畳に正座させられて、父から一時間は説教を食らいましたね。
長兄と次兄が兄弟喧嘩をしたら、柱に縛られたり、行李(こうり)に入れられたとのことですから、当時の親は厳しいもの。
《子供は風邪の子》
冬に我等兄弟四人は一斉に風邪をひきました。
学校を半月は休んだでしょうか。
とにもかくにも寝汗がひどい。
風邪が治って布団を上げたら、布団にカビが生えていたのですから。
《動かすと締まる手錠》
西滝沢村が故郷の十数歳年上の従兄弟が遊びに来ました。
東京の警視庁に勤務しているので手錠を見せてもらいました。
次兄がその手錠に両手を入れると、父がその両手を無理やり動かすものだから、手錠はどんどん締まって、その痛さに次兄は涙目。
《引越しを強要されて》
或る日突然、一年半弱住んでいた借家を家主が使うからと言われ、西滝沢の駅前の神社の境内の中にある元神主が住んでいた古い木造の家に引っ越しました。
この頃、度々停電があり、夜はろうそくが普通でした。
或る日のこと、電灯が消え、その後に漂うゴムの焦げた臭い。
夜中に電気に詳しい父の知人を呼んで天井に入ってもらいました。
案の定、天井の屋内配線のゴムが朽ちてショートしていたのです。
火事になる一歩手前でした。
神社の神主が住んでいた家はどんなに古い建物か想像がつきますね。
他方、西滝沢を去ってから二年後、再度西滝沢を訪れたときに、最初に住んでいた西滝沢小学校前の家を見に行きました。
そこには、私たちが住んでいた家は確かに取り壊されていましたが、新しい家は建っておらず、土台だけは以前のまま。
何故、我等を急遽追い出したのか不思議でしたね。
(神社の場所の地図)
《よそ者を受け付けなかった西滝沢村》
西滝沢に住んでいるときも、それから下川大内村に引っ越しても、父母が発する言葉は『西滝沢はよそ者に冷たいから苦労した』ということ。
最近、ネットで昔のことを色々調べていたら偶然分かりました。
この地は、戦国時代以前から、度々戦場だったのです。
その後、矢島藩と本荘藩の国境となり、この西滝沢村吉沢(現、由利本荘市吉沢)に番所が置かれ、通行人(よそ者)に対しては常に警戒していた歴史があるから、そのせいで村全体がよそ者を受け付けない体質となったようです。
(参考1)当時の我が家の猫をチャペと呼びました。
『チャペ』とはアイヌ語で猫という意味でした。
その他、日常用語としてのアイヌ語では
『ハッケ』 頭 用例ーはっけね(はっけがない、頭が無い、バカ)
『バッケ』 ふきのとう
『ヒロコ』 (ネギの10cm前後の一種の山菜)
(参考2)
【由利本荘市吉沢集落概要】
基本的には通行人や荷物や物資の取り調べが主な仕事ですがいざと言うときには軍事拠点にもなりえました。中級クラスの武士が歴任し、任期は3年ほどでした。
現在、番所の遺構はありませんが後年建てられたと思われる土蔵や池(堀?)があるのでそれなりに雰囲気はあります。
内部は見ることが出来ませんでしたがこれらの仕事は本荘の棟梁や絵師によるもので永泉寺に劣らず由利本荘市を代表する建築と言えます。
本殿は波板が張られ様子がわかりませんでしたが大正4年に建立され、その内部に宮殿(明治16年に建立)があります。
(参考3)私の西滝沢時代の過去の記事