或る広島原爆の記録

 
この随筆は、広島県のブログ友「暁の子」さんの父母・兄弟や親戚の方々の原爆を投下された1945年(昭和20年)8月6日の記憶です。
 
人間の生と死の境目は紙一重。運命とは不思議なものですね。
尚、暁の子さんが生れたのは終戦から数年後です。
 
【お願い】この記事を読む前に私の記事8月6日は広島原爆の日』で画像をご覧下さい。彼女の父母達が体験し、或いは観たそのものです。
 
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      題 『原爆の・・・はなし 』
 
 
原爆を無くそうという運動が世界中に広がっていますが・・・

実際は・・原発という悪魔の子を抱え込んでいます


原発は善と悪の紙一重・・・

原発にかわる・・より安全なエネルギー開発を願うのは私だけではないでしょう


以下・・・実話です
 
                                     ☆
 
 
 
原爆投下したその日・・・・

私の姉は友達とムシロを敷いた上で・枝豆をむいていたそうです・・・

のどが渇いたのでそばにあった井戸の水を飲もうと・汲んだ桶に顔を近づけた瞬間に・・・

大きな音と爆風がしたそうです・・



驚いて頭を持ち上げ・後ろをふりむいたら・・・・

姉の後ろに並んでいた友達がハリネズミのようにガラスの破片が体中に刺さり・・・立ったまま

死んでいたそうです



姉は無傷でした・・・
 
 
死んだ友達が姉の後ろにいたため直接に原爆の閃光を受けずにすんだようで・

やけども負いませんでした・・



丁度その頃・・・

わたしの母は段原町にあった軍需工場に借り出されていまして・・・・

その日は幼い兄が熱を出したので連れて行き守衛室に寝せていたそうです・・・・



仕事をしていると兄が・・

『お母さ~ん・お母さん!」

と寂しいのか・呼ぶ声がするので・・母が様子を見に守衛室へ行きました・・・


「どうしたの?」

兄に声をかけて頭をなでてやる・・その瞬間・・・原爆が落ちました・・・
 
物凄い音と爆風で・・・・慌てて兄を抱きしめ・・じっとしていたようです



暫くして外へ出てみると・・

母がいた工場は壊滅し・・・みんな死んでいました・・・

母と兄だけが助かったそうです



母は兄が呼んだお陰で守衛室にいったのが命の分かれ目となったようですが・・・これは定めでしょうね・・
 
 
母は兄を抱え・・黄金山のふもとにあったぶどう棚の下に身を隠しました・・・


体の弱かった兄は唾色も無くなり・・血の気が引いて真っ青・・・・
 

棚からぶら下がっていたブドウの一粒を兄の口に持って行き・・吸わせるとみるみる血の気が戻ってきたそうで

ぶどうは体にいいんだよ・・と母が言っていましたね・・


落ち着いたところで周りを見渡すとぶどう棚の下には原爆から逃れてきた大勢の人たちが息を潜めて

しゃがみこんでいました・・

皆一様に真っ黒い顔をして目だけが異様になっていたそうです

原爆の閃光が黄金山のおかげでここには届かなかったようでした
 
 
 
何事か全く解らないぶどう棚の持ち主が大勢の人々がぶどう棚の下にもぐりこんでいるので・・

驚いて・・

「このままじゃ・ぶどうがダメになる!!頼むから出て行ってくれ~出て行け~~!!」


必死で棒を持って振り回し・・ぶどう棚の下にいる人を追い払ったそうです


そりゃそうでしょう・・大勢の人が突然なだれ込むようにぶどう棚に向けて歩いてくるんですから・・・


母も追い立てられ・・兄を連れて逃げたようですが・・・
 
 
後々・・思い出したように・母が・

「ぶどう棚のおじさんが親切にブドウをくれて・・」
なんて話してると・・

兄が・「何をいいよるんね・棒で叩いて出て行け!いわれたじゃないか!」


どうやら・・いやな思いではいい話に作り変えたい母と(笑)


いやな思い出のままの兄だったようで(笑)
 
 
 
人の父(舅)はその時「藤野綿業』(現在の東区役所)という布団やさんの工場の近くの貸家におりました・・


爆風と同時に真っ暗になったそうで・・

何が起こったのかわからず・急いで押し込みの中に入ってしゃがみこんでいたようです・



義父もやはり・無傷でした・・家の中にいた為・直接・閃光を浴びなかったのがよかったのでしょう・・

運がよかったのですね・

真っ暗いのが・少しづつ明るくなった頃・・・何が起こったか原因は全くわからないが

とんでもないことが起きたのだと気がつき・・・外に出ました・・・


そこには・・・・瓦礫と化した町並み・・・焼け野原がひろがり・・・・
 
 
全身をヤケドして皮がズルむけになり・・手の先からぶらさがり・・・無言のまま歩く人々の姿がありました

それは・・まるで地獄絵図のようだったと・義父がいっておりましたね・・



「そうだ!姉はどうしたのだろう・・」

やはり軍需工場に出勤していたので・・

広島駅の近くから原爆ドームの近くまで必死での姉を探し回ったそうです・・・

長い間・・探し回っても姉はみつからず・義父は必死でした・・・
 
周りは原爆でやられた人々が道の両端に・数え切れないほど並べられておりましたので・・その中から

見つけることは奇跡でした

並べられて寝かされ身じろぎも出来ない被災者達を一人一人見て回っていると・・・・



かすかな・・・かすかな・・か細い声で・・・・

よっちゃん・・・・・・・よっちゃん・・・・

と・・聞こえてきたそうです・・・


「姉さんだ!!」


奇跡のような出来事でした・・・
 
被爆し動く事も出来ない姉が最後の力を振り絞り義父の姿を見つけ必死で呼んだのだそうです


もし・・その時見つけていなかったら・・

そのまま・・死んだものとされて生きたまま火葬されたかもしれません


事実・・・モノも言えず身じろぎもできないまま死体とみなされ集められて生きながら焼かれた方もいると聞きました・

それから長生きされて90まで生きたお姉さんは義父を命の恩人だと・・よくしてくれたそうです
 
川は死体が隙間が無いほど・浮き・・まるで死体の川だったそうです・・・


イメージ 1


知っていましたか・・・

原爆ドームの周りの道路の下は・・・・・粉々になった

人骨だらけだそうです・・・



何年も経った・・後も暫くは人骨で白い道路だったそう
で・・その上で子供達は遊んでいたそうですよ

片付けようが無い状況だったのでしょう・・
その上にアスファルトが敷かれ舗装されているのです
 
 
原爆投下から数年間・・夏場でも・だれも広島の川や海
に入るものはいませんでした・・・

『お母ちゃん・海水浴しようよ・・』

『とんでもない・水に入るとお化けに足を引っ張られて死んでしまうよ・・誰も海に入るものはおらんよ』

そんな事がまことしやかに言われておりましたねぇ・・・・


原爆慰霊祭の前後日・・・・・

沢山の霊魂が平和公園に集まってきます・・・

戦後・65年も経つと言うのに・・・いまだ浮かばれない霊魂も大勢いるとか・・・・

江原さんみたいな霊能者が広島に来るとたくさんの霊魂がみえるそうですよ・
 
一度・原爆の日の夕方・平和公園に施餓鬼供養の時間を間違えて・いってとんでもない目にあいましたので・・・

それから・・行かないようにしています・・・
被爆されて亡くなられた方が成仏されますように・・・・南無・・
 
広島もこの悲惨な状況からここまでの復興を果たしています

東北だけではなく各地が災害に見舞われています
日本中・・世界中が手をたずさえて・・・・復興に向け・・頑張りましょう・・
 
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(暁の子さんの本記事掲載サイト)
http://blogs.yahoo.co.jp/tokichan_mama/54823266.html
 
(慰霊碑と原爆ドームの画像)「(C) FORES MUNDI」