三川の合流大洪水の地・水無瀬
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歴史地名ジャーナル
より一部抜粋。
この水無瀬川は山間地から出て淀川に注ぐまでは一・五キロと短く、
その間に扇状地性地形を発達させ、度重なる氾濫を窺うことができる。
この氾濫原は平安時代には水無瀬野と呼ばれ、小動物や野鳥の棲息す
る自然豊かな地であった。そのため天皇・貴族等の絶好の遊猟地となり、延暦一一年(七九二)二月六日の桓武天皇の遊猟をはじめとして、嵯峨天皇・淳和天皇などたびたび訪れている(『日本紀略』)。
またこの地は、東南方を望むと、淀川の向うに、石清水(いわしみ
ず)八幡宮の鎮座する男山(おとこやま)を扇の要として山城平野・枚方(ひらかた)丘陵が広がる景勝地でもあった。
この水無瀬川に形づくられた自然や、そこからの景観は多くの歌に詠
まれ、特に水無瀬川は歌枕にもなっている。
事にいでていはぬ許ぞみなせ川
したにかよいて恋しき物を とものり【古今集】
人心何を頼みて水無瀬川
せぜのふるぐひ朽ち果てぬらむ 藤原基俊【千載集】
見渡せば山もと霞む水無瀬川
平安時代以降、水無瀬野に別業(べつぎょう)を営む者が多かった。
情景が詳細に描かれている。
しかし翌年には源通光によって旧地の北西方、百(ひゃく)山の麓に
新たに水無瀬殿が建てられた。
前掲後鳥羽上皇の和歌は、こうした御幸のなかで詠まれたものといわ
れる。ちなみに定家は水無瀬殿をたびたび訪れ、上皇から和歌の詠進・評定を命じられている。
上皇の遺言は配流後の水無瀬殿を守っていた藤原(水無瀬)信成・
親成父子に伝えられた。この父子は遺言に従って水無瀬殿の旧地に上皇の菩提を弔う御影堂を建立し、その祭祀をおこなうこととなった。今の水無瀬神宮である。
贅をつくして営まれた新水無瀬殿も、主なきあとは荒れるにまかされ
たのか、弘安八年(一二八五)頃には往時の姿を偲べないほどになっていた。
『中務内侍日記』(同年九月条)は「これなんむかし御所にていみし
かりしも、いまかくなりぬる。あはれに侍ると」と記し、さらに「あさからぬ昔のゆへを思ふにもみなせの川に袖そぬれぬる」と記している。
都に近接していたためか、この水無瀬川に刻まれた歴史は華やかにい
ろどられている。
しかし、その底には頻繁に洪水を起し人々を苦しめたり、反面谷川の
水車を動かす力や農業用水の源となり人々に恵を与えるなど、人々の生活に密着した姿があった。
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災害の記録は削除すべからず 2015/4/1(水)
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近々、私の祖先に関して、京都大学院大学教授が書いた論文や史跡家の著述書を入手します。面白いものですね。
尚、父方の祖母の祖先については、昨秋、ある小学校の全校生徒による劇にもなったとの由。調べてみるものですね。