三川の合流大洪水の地・水無瀬

 
九州各地での今夏の梅雨では、洪水被害の報道がなされていますが、実は、藤原定家小倉百人一首で描いた水無瀬と言いますと、古来、大洪水が起きていましたね。
 
それもそうですね。京都・鴨川が流れ込む桂川、琵琶湖から流れる宇治川、奈良や三重から流れ込む木津川、その三川の合流地がここ水無瀬ですから。
 
             ◆
 
歴史地名ジャーナル
第47回 水無瀬川 【みなせがわ】
より一部抜粋。
 
 
淀川の支流のひとつに、京都府大阪府の境釈迦(しゃか)岳に発
し、天王(てんのう)山の南西麓を流れる全長九・四キロの水無瀬川がある。
 
この水無瀬川は山間地から出て淀川に注ぐまでは一・五キロと短く、
その間に扇状地性地形を発達させ、度重なる氾濫を窺うことができる。
 
この氾濫原は平安時代には水無瀬野と呼ばれ、小動物や野鳥の棲息す
る自然豊かな地であった。そのため天皇・貴族等の絶好の遊猟地となり、延暦一一年(七九二)二月六日の桓武天皇の遊猟をはじめとして、嵯峨天皇淳和天皇などたびたび訪れている(『日本紀略』)。
 
 
またこの地は、東南方を望むと、淀川の向うに、石清水(いわしみ
ず)八幡宮の鎮座する男山(おとこやま)を扇の要として山城平野・枚方(ひらかた)丘陵が広がる景勝地でもあった。
 
この水無瀬川に形づくられた自然や、そこからの景観は多くの歌に詠
まれ、特に水無瀬川は歌枕にもなっている。
 
 
事にいでていはぬ許ぞみなせ川
したにかよいて恋しき物を   とものり古今集
 
人心何を頼みて水無瀬川
せぜのふるぐひ朽ち果てぬらむ   藤原基俊【千載集】

見渡せば山もと霞む水無瀬川
夕は秋となにおもひけむ  太上天皇後鳥羽上皇)【新古今集 
 
 
平安時代以降、水無瀬野に別業(べつぎょう)を営む者が多かった。
例えば『伊勢物語』八二段には惟喬親王の宮があったことと、辺りの
情景が詳細に描かれている。
 
正治元年(一一九九)頃、水無瀬川と淀川の合流点近くに後鳥羽上皇の離宮、水無瀬殿が営まれた(『明月記』)。
 
この離宮は建保四年(一二一六)六月二八日の大雨で流失してしまった。(『百錬抄』建保五年正月一〇日条)
 
しかし翌年には源通光によって旧地の北西方、百(ひゃく)山の麓に
新たに水無瀬殿が建てられた。
 
この新離宮は「土木惣尽海内之財力」といわれるほどに贅をつくし
たものであった(『明月記』)。
 
後鳥羽上皇は水無瀬の地を好んだようで、藤原定家の日記『明月記』
に記されるだけでも水無瀬御幸は三〇回程に及んでいる。
 
前掲後鳥羽上皇の和歌は、こうした御幸のなかで詠まれたものといわ
れる。ちなみに定家は水無瀬殿をたびたび訪れ、上皇から和歌の詠進・評定を命じられている。
 
承久三年(一二二一)鎌倉幕府打倒に失敗した後鳥羽上皇は山陰隠
岐島に配流され、延応元年(一二三九)再び都にもどることもなく配流地で没した。
 
上皇の遺言は配流後の水無瀬殿を守っていた藤原(水無瀬)信成・
親成父子に伝えられた。この父子は遺言に従って水無瀬殿の旧地に上皇の菩提を弔う御影堂を建立し、その祭祀をおこなうこととなった。今の水無瀬神宮である。
 
贅をつくして営まれた新水無瀬殿も、主なきあとは荒れるにまかされ
たのか、弘安八年(一二八五)頃には往時の姿を偲べないほどになっていた。
 
『中務内侍日記』(同年九月条)は「これなんむかし御所にていみし
かりしも、いまかくなりぬる。あはれに侍ると」と記し、さらに「あさからぬ昔のゆへを思ふにもみなせの川に袖そぬれぬる」と記している。
 
都に近接していたためか、この水無瀬川に刻まれた歴史は華やかにい
ろどられている。
 
しかし、その底には頻繁に洪水を起し人々を苦しめたり、反面谷川の
水車を動かす力や農業用水の源となり人々に恵を与えるなど、人々の生活に密着した姿があった。
 
現在、工場と団地の間を完全補強されて流れる水無瀬川に、その刻ん
できた歴史を見出すのはむずかしい。
 
ただ支流にある水無瀬滝に祀られた八大竜王に、水無瀬川にかけてき
た人々の願いをうかがうことができる。
 
 
 
注)水無瀬神宮水無瀬川、水無瀬の滝についての私のブログ書庫
 
             ◆
 
水無瀬の昭和時代の洪水に関しては、京都精華大学の戸田裕子さんの卒業論文があります。
 
災害の記録は削除すべからず  2015/4/1(水)

             ◆
 
●余談ですが、私の父方の祖父の祖先について由利本荘市に尋ねると、資料はそこになく、回りまわって遂に京都大学までたどり着きました。
 
近々、私の祖先に関して、京都大学院大学教授が書いた論文や史跡家の著述書を入手します。面白いものですね。
 
尚、父方の祖母の祖先については、昨秋、ある小学校の全校生徒による劇にもなったとの由。調べてみるものですね。