孫達をどう生き延びさせるかは爺婆の責務かも

 
M9の大地震の後では、火山噴火の危険性が高まる ! 」

藤井敏嗣(東京大学名誉教授・地震予知連絡会会長)の証言。
歴史上、世界では大震災の後に火山が爆発していた。
(2011年12月8日衆議院災害対策特別委員会
 
 
要旨を箇条書きにすると以下の通り
    火山噴火は数時間~数日前に把握できる。
但し、直前の現象を捉えられないケースも有り。
    M9クラスの地震の後には、火山噴火を誘発。
1000年ぶりの噴火が起きる
    日本列島は、3.11を境に大変化。
これからの数十年は火山の噴火が起きる。
④先進国G8のうち、国土全体が地震・火山の脅威にさらされるのは日本だけ。
 
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参考)貞観地震(869年)の約20年後に東海・東南海・南海の連動地震(887)
この時は、京都で民家などが倒壊。特に摂津(大阪)がひどかった。
 
その前後に、富士山(800~)・新潟焼山(887~)・鳥海山(810~)・伊豆大島・伊豆諸島新島などが噴火している。
 
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然し、西日本も怖いですね。東海も含めて。
何しろ、東海から九州・日向灘までの四連動地震を覚悟しておかなきゃ。
 
以下、主要な地震を抜粋。
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(1)室町時代前期に発生した「正平(康安)地震から
 
正平16年(康安元年)6月24日寅刻(ユリウス暦1361年7月26日4時頃、グレゴリオ暦1361年8月3日)、西日本太平洋沖で大地震が発生した。
 
摂津四天王寺の金堂、奈良唐招提寺薬師寺、山城東寺など堂塔が破損、倒壊した。紀伊では湯の峯温泉の湧出が停止し、熊野山の山路や山河の破損が多く、熊野神社の社頭や仮殿が尽く破損した。
 
難波浦では津波襲来の約1時間前に数百町(数10km)潮が引き、干上がった海底の魚を拾い集めようとした漁師ら数百人が突如襲来した津波により溺死した。
 
津波は宝永地震よりもさらに1km程内陸に及び、海岸から約4kmの距離にあった天王寺付近まで達したという。
 
太平記』には「山は崩て谷を埋み、海は傾て陸地に成しかば、神社仏閣倒れ破れ、牛馬人民の死傷する事、幾千萬と云数を知ず」と記述され阿波の雪湊(現・徳島県美波町由岐地区)において大津波1700余りの家が流失した様子も記され「家に居た僧俗男女、牛馬鶏犬。一つも残らず海底のもくずとなった」とある。
 
阿波における被害記録が確認されているのは『太平記』のみであり、その他の古文書からは確認できないが、雪湊は『平家物語』にも登場し、この頃、土佐および九州への中継の立寄り湊として1700余戸の家数を持つ当時としては大きな湊町であったことは妥当であると推定される。
 
太平記』の冒頭の部分は『方丈記』にある文治地震における「山はくづれて河を埋み、海は傾きて陸をひたせり。」の記述に似る。
 
鳴戸では三四日前に地殻変動で海が干上がり、地震前後に数時間に亘って地鳴りが響き渡り、地震による地殻変動で再び没して海に戻った様子が比喩的に表現されている。

また6月22日の地震(前震)の日は盛夏にも関わらず冬至前後の様な寒さで雪が降りだしたことが記録されているhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%B9%B3%E5%9C%B0%E9%9C%87
 
(2)宝永地震(ほうえい じしん)は、江戸時代の宝永4年丁亥10月4日壬午の午下刻 –未上刻(1707年10月28日13 - 14時頃)、遠州灘沖から紀伊半島沖(北緯33.2度、東経135.9度)を震源として発生した巨大地震
 
南海トラフのほぼ全域にわたってプレート間の断層破壊が発生したと推定され、かつては記録に残る日本最大級の地震とされてきた。地震の49日後に起きた宝永大噴火と共に亥の大変(いのたいへん)と呼ばれる。
 
南海トラフ沿いを震源とする巨大地震として、江戸時代には宝永地震のほか、慶長9年(1605年)の慶長地震嘉永7年(1854年)の安政東海地震および安政南海地震が知られている。
 
また、宝永地震の4年前(1703年)には元号を「宝永」へと改元するに至らしめた関東地震の一つである元禄地震が発生している。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E6%B0%B8%E5%9C%B0%E9%9C%87
 
宝永地震は、東海・東南海地震と同時に発生。M8・6は、M9・0の東日本大震災が起こるまでは国内最大級で、死者も2万人以上兵庫県の瀬戸内沿岸部でも高さ2~3mの津波があったとされる。
 
宝永地震については、同じ南海トラフ上にある九州・日向灘でも同時に地震が起きた「4連動地震」の説もあり、東京大や京都大などのチームは「300~500年周期で4連動地震が発生している可能性がある」とする。その場合、破壊される断層は約700キロに達し、東日本大震災の約500kmを上回る。
 
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(3)大津波の教訓(毎日新聞2011年3月20日)余録より

 江戸末期の安政元(1854)年に起きた安政東海・南海地震津波被害を伝える石碑が 大阪湾岸部近くの川の交わるほとりにある。

願わくば心あらん人、年々文字よみ安きよう墨を入れたまふべし」。

碑文がそう結んでいるのは、被災体験を風化させることなく後世に伝えよとの願いである

マグニチュード(M)8.4の巨大地震が連続して発生し、関東から四国にかけ、それぞれ数千人が犠牲になった。水都・ 大阪も津波に襲われ、無数の船が川をさかのぼり橋を壊して多くの水死者を出した

▲碑文は、その147年前の宝永地震を例に引き、当時も津波で大勢の命が奪われたが、年月がたてば伝え聞く人もほとんどいなくなり、また同じ場所で多くが亡くなった。今後も起こるだろうと警告している

▲東海、東南海、南海の3地震が同時発生したのが宝永地震だ。近い将来に予測される3地震の連動である。そこに耳目が集まる中で起きた東日本大震災だ。M9.0という世界最大級の規模も、この地域での巨大地震の連動も想定外だった
 
        以上で転載おわり
 
 多少安心できる地域はオホーツク海沿いの内陸かも。トホホ!
 
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