今回の殺人事件で思い出すもう一つの殺人事件
この事件をテレビで流れる度に思い出すことが有ります。
西口容疑者は、幼少の頃から、子供のいないお向いの尾崎さん夫婦から可愛がられていたのですね。歯科医師の奥さんは殺害後、証拠隠滅を図り山で焼くとは!
思い出すのは、当に恩を仇で返す典型的な例だからです。
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【西口容疑者:元副社長宅「月末に大金」・・・計画的に殺害か】
象印マホービン元副社長、尾崎宗秀(そうしゅう)さん(84)ら堺市の資産家2人の殺害を自供した無職の西口宗宏容疑者(50)=窃盗容疑で逮捕=が大阪府警の調べに、「尾崎さんの家には月末にまとまった金があると思った」と供述していることが捜査関係者への取材で分かった。西口容疑者と尾崎さんは数十年来の付き合いで、府警は尾崎さんの資産事情に詳しい西口容疑者が計画的に殺害したとみている。(以下省略)
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さて、思い出すこととは、
日帝時代、朝鮮に移り住んだ日本人の中には、明らかに立派な人々も多かった。
ところが、和夫一家殺害事件のように、韓国人は自分たちの間違いを、日本がやったから俺たちもやったんだというふうに弁明し、事件を矮小化、隠蔽しようと躍起になっている。
和夫の亡骸は、釜山に大切に移葬され、毎年、日本人の墓参りが絶えない。
和夫の亡骸は、釜山に大切に移葬され、毎年、日本人の墓参りが絶えない。
以下は、和夫夫婦が死んだ日、ふだん彼から深い恩を受けていた金ソンス君が見聞きしたことを記録した証言だ。事件当時、金ソンス君も加害者だったが、殺害行為には同調しなかったそうだ。
公務員だった和夫は、政府の命令にしたがって仕方なく朝鮮へ赴任したのだ。そのころの日本は、一種の軍事独裁体制で、政府の命令に従わなければすぐに売国奴として排斥されそうな雰囲気があったという。
当時、朝鮮にいた日本人地主のなかには、朝鮮人の小作人たちから、法の規定以上の小作料を取り立てる、怪しからぬ人々もいたが、ふだんから人情味の厚かった和夫は、小作料を収穫全体の十分の一とし、村人たちを家族のようにみなして喜びも悲しみもともにした。
自分たちの生活が困らなかったので、総督府の法令にしたがって、やむをえず受け取らなければならない最小限の小作料だけをとったのだった。
貧しい小作人が「食料がない」と泣きつけば、喜んで食べるものを分けてやったし、村で誰かの葬礼があれば、家族総出で駆けつけ、食事の支度はもちろん、自ら慟哭して、悲しみを分かちあうこともあった。
当時、朝鮮にいた日本人地主のなかには、朝鮮人の小作人たちから、法の規定以上の小作料を取り立てる、怪しからぬ人々もいたが、ふだんから人情味の厚かった和夫は、小作料を収穫全体の十分の一とし、村人たちを家族のようにみなして喜びも悲しみもともにした。
自分たちの生活が困らなかったので、総督府の法令にしたがって、やむをえず受け取らなければならない最小限の小作料だけをとったのだった。
貧しい小作人が「食料がない」と泣きつけば、喜んで食べるものを分けてやったし、村で誰かの葬礼があれば、家族総出で駆けつけ、食事の支度はもちろん、自ら慟哭して、悲しみを分かちあうこともあった。
このように、和夫は人間への温かい愛情をもった、真の人間だった。
また、和夫は近くに行き場のない孤児がいると、連れ帰って面倒を見ていたが、その数は、一人、二人と増え、四、五年たつといつのまにか私設孤児院規模にまで増えてしまった。けれども、和夫夫婦はこれら孤児たちを家族のように愛し、自ら喜んで彼らの父、母を称した。
和夫の家族は、ふだん、このように朝鮮人を愛し、日本軍国主義の簒奪に憤慨するような人々だった。しかし、彼らは、日本の天皇が降伏宣言をした一九四五年八月十五日、自分たちが育てた朝鮮人孤児たちにより、凄惨に殺害されたのだ。
その日、まさに万歳の声とともに、太極旗が波のように風になびきつつ、朝鮮人の世がやって来た。神は、自分が受けるべき朝鮮人の愛を横取りしたと、和夫君に嫉妬したのか?
彼がわが子のように育て、東京帝国大学に留学までさせたAの主導下に、彼の家で教育を受け、育ち、成人した青年たちが、斧と鍬、スコップを手に、和夫のもとに押しかけた。そのとき現場にいた金ソンス君は、次のように証言している。
和夫:(穏やかな目で)なんでこんなことを、子どもたちよ。
A:チョッパリ! 日本へ失せろ、失せちまえ。
和夫:(怒ったような声で)私が、お前たちにどんな間違いをしたというんだ。お前たち、みなが私の息子だ。私はこの家の家長であり、お前たちの親だ。お前たちの祖国が解放されたことは、私もふだんから待ち望んできたことだ。
また、和夫は近くに行き場のない孤児がいると、連れ帰って面倒を見ていたが、その数は、一人、二人と増え、四、五年たつといつのまにか私設孤児院規模にまで増えてしまった。けれども、和夫夫婦はこれら孤児たちを家族のように愛し、自ら喜んで彼らの父、母を称した。
和夫の家族は、ふだん、このように朝鮮人を愛し、日本軍国主義の簒奪に憤慨するような人々だった。しかし、彼らは、日本の天皇が降伏宣言をした一九四五年八月十五日、自分たちが育てた朝鮮人孤児たちにより、凄惨に殺害されたのだ。
その日、まさに万歳の声とともに、太極旗が波のように風になびきつつ、朝鮮人の世がやって来た。神は、自分が受けるべき朝鮮人の愛を横取りしたと、和夫君に嫉妬したのか?
彼がわが子のように育て、東京帝国大学に留学までさせたAの主導下に、彼の家で教育を受け、育ち、成人した青年たちが、斧と鍬、スコップを手に、和夫のもとに押しかけた。そのとき現場にいた金ソンス君は、次のように証言している。
和夫:(穏やかな目で)なんでこんなことを、子どもたちよ。
A:チョッパリ! 日本へ失せろ、失せちまえ。
和夫:(怒ったような声で)私が、お前たちにどんな間違いをしたというんだ。お前たち、みなが私の息子だ。私はこの家の家長であり、お前たちの親だ。お前たちの祖国が解放されたことは、私もふだんから待ち望んできたことだ。
踊りでも踊りたい気分の日に、なんだって凶器をもって私の所に詰めかけたりするんだ。私は決してお前たちをそんなふうに教育したおぼえはない。(涙を流しながら)ほんとうに悲しいことだ。
朝鮮の息子たちよ。私が愛を傾け、育ててきた結果は、つまるところ日本人と朝鮮人は融和できないということなのか。お前たちが望むなら、帰ってやるわ。
A:(意味深長な目配せをBに送る) 財産をすっかり処分して帰ったら、おれたちはどうやって食っていくんだ?
B:死ね、チョッパリ、シッパルノマ。
間髪入れず鍬が、和夫の後頭部に振り下ろされたのと同時に、数多くのスコップと斧が彼の体をずたずたに引き裂きはじめた。
このとき、和夫の妻が我慢できずに飛び出してきた。それまで黙っていたCは、和夫の妻を見て、彼女の長い髪をつかみ、庭の奥まったところに引きずっていった。
そしてなんと十三人がかりで、ほんの一週間前までお母さんとして恭しく仕えていた彼女を、強姦しはじめた。(金ソンス君は、この期に及んで自分が止めに入ったら、自分も殺されただろうと言った)。
強姦に耐えられなかった彼女は、行為の途中で死亡し、Dは、ふだんお母さんと呼んでいた彼女の全身を滅多刺しにするだけでは足りず、内臓をひきずり出して、まき散らした。
和夫には、一人の幼い娘がいた。ふだん模範的でいい子だったヒミコさんは、放課後、家に帰ってきて、両親の身に起こった惨状を見、気が触れてしまった。ヒミコが何日間も慟哭する声に、近隣住民たちは眠れなかったそうだ。
その後、孤児になったヒミコは、食べ物を乞おうと、その付近をさまよったが、朝鮮人は誰一人彼女に目もくれず、知らないふりをした。
結局、彼女は九日後、村の橋の下でやせ衰えた死体となって発見された。当時、ヒミコは小学校六年生の幼子だった。和夫の財産は、勇猛で愛国心に燃えたつ朝鮮の青年たちの手にそっくり渡り、この事件は村人たちの沈黙の中、しだいに忘れられて行った。
『親日派のための弁明』 金完燮 著より
注)この本は、当初、韓国で販売されましたが、韓国では青少年有害図書に指定
いかがでしたか。これが戦中・終戦直後の日本人でした。
これが有害図書として著者は逮捕の韓国。
その韓国の偽造の歴史のドラマに身体を熱くする日本のおばさま族。