鬼瓦の銘文解読一考
『新たな鬼瓦の銘文解読』
越前瓦を調査した学者や福井県の瓦調査職員、並びに、新聞記事では、鬼瓦に刻まれた銘文のある文字を『村』と解釈したが、私は『岩』と解釈する。
(この記事の作成完成日 2012.09.03)
(この記事への加筆日 2013.01.06、2313.12.15)
そこに展示されている鬼瓦の銘を確認しようとしたが、銘は見当たらず。
但し、説明文には『越前瓦師平八作』と書かれている。
下記は福井県が調査した記録と見解本『粘土瓦の起源と変遷』の中の一覧表の抜粋ですが、当時、京大大学院久保智康教授と福井県庁職員が秋田県亀田の加藤三男家まで出かけ、現物調査した鬼瓦の銘文を『村井平八』と読解しています。
私の推論から申し上げますと、鬼瓦に描かれてある銘文の解釈は『村井平八』ではなく、『岩井平八』ではないでしょうか。
以下、素人の推論。
私が2002年頃に見た古い秋田魁新聞(1980年代?河北新報かも)の全1ページには、本荘湊と石脇湊の盛衰についてでありました。
その記事中、掲載された何枚かの瓦屋根と鬼瓦の写真のうち、鬼瓦に銘文が書かれてある写真が一枚ありました。
その銘文とは、下記のようなものでした。
福井県の調査隊は、この銘文を『村井平八』と読みました。
最初の文字をどうして『村』と読むのか調べましたら草書体の『村』でした。但し、一旦は成る程と思うも、納得できませんでした。
(参考)下記は全文字『村井平八』を楷書で書いた場合。
『村井平八』
或る日、ひょっと思いつきました。
草書体の『村』は、ひらがなの『ゐ』と『わ』を重ねあわせたものであると。
だから、それで、『ゐわ井平八』と読ませていたのだと。
然し、それでは、草書体『村』の右上に点『ゝ』が無いはず。
この『ゝ』のあることで、当時の私の思考は行き詰りました。
然し、それから10年弱の2012年の今春、妙なことに気がつきました。
陸前瓦の文献『粘土瓦の起源と変遷』の記事中にも『村井平八』と書かれていたのです。
事実を忠実に記録として活字にするなら、この字『村』のみは草書体でなければならない。
と考えたら、瓦に書かれた銘文そのものへの疑問が湧きました。
もしも、『村』が草書体なら、他の三つも草書体でなければならない。
或いは、他の三つの漢字が楷書なら『村』も楷書でなければならない。果たして自分の名前を書くのに、一字だけ草書体で書く人がいるだろうか?
そこで各文字の草書体を調べました。
『井』と『八』は楷書でも草書体でも大きな変化はありませんが、『平』の漢字は、草書体にすると全く違う形でした。
下記二つの例は、何れも草書体で書いた場合の『村井平八』です。
新聞に掲載されていた銘文の写真では、下の画像の通りです。
鬼瓦に縦書きで書かれたものでした。
『村』だけが草書体で残る三文字は楷書。拠って、この『村』だけ草書体の銘文を『村井平八』とは読めない。
それに、この『ゝ』は、草書体の村を書いた場合の通常の位置ではなく、明らかに4~5個分以上離れた右上隅にあったのです。
これは普通の『お』とか『か』の点の位置ではない。
更に、この字が村の草書体とすると、右下の曲がり(跳ね)は『わ』の形にならなければならない。だけど『ゐ』と『わ』の中間の位置で止まっていたのです。
この字を、花押(かおう サイン)と解したら、以下の通りです。
この『村』の草書体らしきものは、『ゐ』と『わ』を重ねたもので、『ゝ』はひらがなを繰り返して読むという意味となります。
つまり、この一字で『ゐわゐ』(岩井)なのです。
注1)『ゐ』を『ゝ』で繰り返し読むと『ゐわゐ』なのですが、
或いは、『ゝ』を『い』の片方として『ゐわい』と読ませたかも。
或いは、『ゝ』はこの字とは全く関係の無いもの、又は、単なる傷とすると、『ゝ』が無いから村の草書体ではなくなり、この一字で『ゐわゐ』、又は『ゐわ』と読むことになる。
その前に、
★
注)2012年 菩提寺の岩井山長禅寺に確認。
過去帳は火事で焼失。
今の住職は三代目で、それ以前の住職とは何等つながりはない。
拠って、明治時代も含むそれ以前のことに関しては全く知らないとの由。
★
さて私が見た祖父の戸籍の記憶によると江戸時代の記述は下記の内容でした。
☆
江戸時代
平八
注1)添え書きがあり、その文中に
能登と瓦の文字があった。
注2)平八と次の籐八郎の間には
何故かかなりの余白があった。
岩井籐八郎
注3)ここが何行分かの余白
岩井籐八郎
岩井菊五郎 注4)ここでも名前は歌舞伎役者
岩井籐八郎
○○○○ 注5)ここの苗字は岩井ではなかった
岩井籐八郎
☆
この戸籍から言うならば、私の祖先は『平八』でした。
尚、新聞の記事では、以下の内容が書かれていました。
これが発展して廻船問屋となり、日本海を南下し瀬戸内海を回り大坂まで特産物を運ぶ。
そして石脇には姓が『岩井』の三軒の瓦屋があり、それぞれの名とそれぞれの屋号が記入されていました。その屋号は忘れて記憶にないがロゴマークの一部は画像としての記憶にあります。
その記事で私の記憶に残っているロゴマークが『○』の中にカタカナの『イ』。(画像左)
もう一つが『山』の記号の下に何等かの文字?(画像右)
残る一つは草書体の文字だけのもので忘れました。
尚、私の祖先は『○』の中にカタカナの『イ』で、これは私の幼少時代の毎年夏に墓参りした長禅寺の墓石からも窺えます。
☆
(参考)
なび秋田より 曹洞宗岩井山長禅寺
曹洞宗岩井山長禅寺は赤田の大仏で有名な同市赤田・長谷寺の末寺で、開基は岩井忠右衛門,開祖は長谷寺3代順芳和尚。
廻船問屋岩井(石脇三軒町 亀田藩御用船)は、別荘地としていた岩井山を寄進。改修工事前の昭和30年代まで、位牌堂では開祖の位牌と並んでいたものです。
廻船問屋岩井(石脇三軒町 亀田藩御用船)は、別荘地としていた岩井山を寄進。改修工事前の昭和30年代まで、位牌堂では開祖の位牌と並んでいたものです。
注)忠右衛門は役職名。
☆
石脇三軒町の町名の由来
注)新聞記事にはこれら三軒の岩井の所在地は三軒町と書かれていたが、その町の由来等には言及していない。
次兄が父から聞いた話では、
石脇に『岩井』と称する瓦屋が三軒あったことから、その地域は三軒町と命名され今日に至るとの由。
注)他方、『粘土瓦の起源と変遷』の中の一覧表の中での鬼瓦の銘文として『石脇岩井出 平八』と書かれていることから、石脇三軒町の地名はひょっとして江戸の後期(1821年)では『石脇岩井』、もしくは『石脇岩井三軒町』と言ったのかも。
現在の私の祖父・岩井鉄之助の戸籍には、三人の岩井が登場する。
それは、岩井鉄之助の父親(私の曾御祖父)岩井菊五郎。
菊五郎の養子先が岩井佐助。
(戸籍の図)
岩井佐助ー (養子)菊五郎ー(長男)鉄之助ー(三男)友助
↑
岩井吉太郎ー(四男)菊五郎
(注)祖父鉄之助も歌舞伎役者の名前。
これで岩井吉太郎と岩井佐助とは縁戚で提携関係にあったと言えるし、鬼瓦にも両名の名が刻まれています。
つまり、石脇三軒町では、岩井平八、岩井吉太郎、岩井佐助、の三軒が軒を連ね、技術・製造・販売の三位一体を為していたと言えます。
壬申戸籍を拡大解釈すると、元祖は越前で修業した『瓦師平八』で、その子孫が三つの岩井に分家したとも考えられます。尚、平八の名前は代々継がれ、子孫も越前に修業に行ったのでは?
そう考えるのが自然ではないでしょうか。
それでは、当初の疑問点に帰って、
岩井平八は、常日頃、花押(かおう)『岩井』として使っていたものを、鬼瓦製作の時に他の岩井と区別するための銘文の中で『岩』として使った。
つまり、この花押単独の場合は『岩井』(平八)を意味し、銘文のような場合は、岩井平八を意味する『岩』と読ませた。
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それは、この本の中で、彼が執筆した論文「日本海域をめぐる赤瓦」の全文コピーでした。
日本海域歴史大系 第4巻 近世篇Ⅰ
出版社: 清文堂出版
発売日: 2005/9/20
コピーは、p381からp416迄の凡そ40pです。
この時は、私の主張に対しての先生のご意見は「越前と岩井家のつながりを重視したもの」としか無かったのですが、それから半年後、先生から突然福井の名産品が贈られてきましてびっくりしました。何故か贈ってきた理由は書かれていませんでした。(以後省略)
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他方、石脇に関しての資料は、大火のせいもあり、ほとんどありません。
余談)
父が次兄にした話によると祖先の50棟あった蔵で焼け残ったのは二棟のみとのことです。
私が本荘中学1年(1956年)の時だったと思いますが、石脇を歩くと、その内の一棟は未だ残っていました。
これが原因かどうかは不明ですが、岩井(吉太郎系)家を含む石脇の二軒の岩井家は、資金調達に失敗し、北海道の松前(函館の西)に夜逃げします。
残るは岩井佐助⇒(養子)岩井菊五郎⇒岩井鉄之助(私の祖父)系。そして岩井鉄之助の時代、廻船問屋を廃業し、質屋を始めます。
☆
鉄之助の妻ユウ(私の祖母)が私の母に語る廻船問屋時代。
こんな生活はこりごりで、息子の友助(三男)には商売人にはならせたくないので、本荘中学から秋田師範に進ませたとのこと。そして秋田市内に家を買い、祖母ユウは私の父友助と二人で秋田に住んだとのことです。
(追記)
この抜粋した資料では、石脇の廻船問屋の『岩井』は登場していない。
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由利本荘市資料より『石脇のにぎわい』より一部抜粋
安政2年(1855)の「東講商人鑑」によれば、石脇には6軒の廻船問屋と、本荘と同様に一軒の同講の商人定宿がありました。これは石脇が日本海交易の有力な湊として、加えて商人たちが頻繁に往来する町場として、当時広く認められていたことを示しています。
また石脇は上町・新町・中町・三軒町の四か町から成立っていて、約1000人が居住する(『史料編Ⅲ』466頁)、人口集住度の高い地域でした。「筆満加勢」の著者で芸人の藤原衆秀を「お座敷」に呼んで遊宴を催したという記述も見え、同所には湊町によく見られた遊郭「吾妻屋」も存在していたようです(『文化・民俗編』296~7頁)。
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(参考)
私のルーツ探索(1)祖母淵名家 2012.08.24
私のルーツ探索(2)全校生徒(西目小学校)で演じる淵名孫三郎とは? 2012.08.27
私のルーツ探索(3)淵名孫三郎の碑 2012.09.29
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