何でも鑑定団での夢路と順子の手紙

先月(2010.11.23)の「開運!何でも鑑定団」(テレビ大阪・テレビ東京)《←ここをクリック》で、山田耕一郎氏が「竹下夢路と山田順子の手紙」を鑑定してもらっていましたね。
 
 
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山田氏は山田歯科医院の3代目院長。住所)秋田県由利本荘市古雪
山田順子(ゆきこ)は祖父の妹。
お宝は、夢路と順子が秋田を旅行中に宿から出した手紙。
 
注)竹久夢二山田順子(ゆきこ)についての前回の私のブログ記事は下記をクリック。
 
 
尚、改めて順子(ゆきこ)を検索しましたら、本保弘文氏(房総の歴史・調査研究者)の「竹下夢二と山田順子に関しての詳細なブログ記事がありましたので、下記に掲載します。
 
然し、秋田出身の女性達は激しく燃えますね。
そんなに燃える秋田の女性達が私の同級生だったとは!
 
以下、本保氏のブログ記事です。

                    ★

竹久夢二と女性たち(その7) 
     『夢二式美人画像』の源泉となった『お兼』(お葉)』〈Ⅴ〉


注)「お葉」は夢二が「お兼」に付けた愛称 本名 佐々木カネヨ 秋田県河辺郡生れ 明治37~昭和55
 
お兼が深谷温泉に療養中の大正14年(1925)4月12日に、夢二は徳田秋声に頼まれて装丁した女流小説家山田順子(ゆきこ)の自伝小説『流るるままに』が出版された。
 
この順子は、明治34年(1901)6月、秋田県由利郡本荘町(本荘市)で廻船問屋を営んでいた山田古雪の長女として生まれた。お兼より3歳年上の同郷の女性であった。県立秋田高等女学校(秋田北高校)を卒業し、大正9年(1920)に東京帝国大学卒業の弁護士増川才吉と結婚し、小樽に住んでいた。
 
13年(1924)3月に小説家を目指して上京し、原稿を持って徳田秋声の家を訪れた。このとき、秋声は「爪ざね顔の浮世絵風の美人の順子に魅せられた」というが、持参した原稿は未熟さが見られ、出版という訳には至らなかった。
 
落胆した順子は、一旦帰郷し、12月に夫と離婚し、3人の子供とも別れて再び上京し、秋声の力を借りて『流るるままに』を出版したのである。そして、15年(1926)1月に秋声の妻が急死したため、1ヶ月も経たないうちに順子は秋声の愛人となった。
 
お兼が静養していた深谷温泉から帰宅し、その3週間余り後に順子が初めて夢二の山荘を訪れた。夢二が41歳、お兼が21歳、順子が24歳の時である。この日から順子はたびたび山荘を訪れ、そのうちにお兼の目を盗んで2人は男女の関係を持つようになった。そして、2人で1週間余り順子の故郷本荘などの旅行に出掛けた。
 
お兼は、何も言わずに出て行った夢二を心配して、あちこち捜しているうちに、順子と本荘に行っていることが分かった。新たな持ちで出発しようと約束した矢先、また夢二の浮気が発覚したのである。
 
お兼は、順子が同郷であったことは勿論、男の気を引くように唇に鮮やかな赤を塗り、けばけばしい羽織を装い、自分の美貌を誇示するような多弁な話しぶりに嫌気をさしていた。
 
6月1日、自らの境遇に耐えかねたお兼は夢二と別れることを決意し、山荘を出て金沢に向かった。お兼は夢二が嫌いになって別れるのではなく、順子との浮気を許すことが出来なかったからであるという。
 
一方、順子は、お兼が山荘にいないことを知ると、山荘に来てそのまま居座った。
このことが6月10日付けの『読売新聞』に掲載された。
 
竹久夢二さんは拾年同棲の夫人と別れて、女流作家山田順子さんと同居してちらほら噂の種蒔きをやつている。(中略)夢二氏の夫人は手切金とかを貰つて山中温泉への逃避行をやつているよし。>
 
お兼は、この新聞記事を読み、夢二が順子と同居していることを知り、激怒したという。夢二もあわてて、同月16日に藤島宅を訪ね、お兼からの手紙を受け取った。
 
そこには、
<これからは自分の力で自分の行く手を拓いてゆく。>
と書かれていた。
 
山荘に来た順子は、夜も昼も布団を敷きっぱなしにし、そこで寝ころんで「創作」をしたり、食事をしたり、酒を飲んだりしていた。これにはさすがの夢二も呆れ、いやな顔をし、虹之助も順子の顔を見るたびにいや味を言った。
 
7月24日、順子は、自尊心を傷つけられ、また、文壇とのコネも付けてくれない夢二に見切りをつけ山荘から出て行った。同棲期間は、50日に満たなかった。<続く>
 
注1)本保氏のブログ
 
注2)本保氏のホームページ
 
 
追記1)デンジャラス・Tommy♪氏のブログより
 
 
団鬼六の『異形の宴』を読んで伊藤晴雨の事を知った。
責められた女体美を生涯描き続けた異端の画家です。

彼のモデルを務めた美人の兼代(お葉)は、知る人ぞ知る、
あの竹久夢二と恋に落ち3度目の妻(入籍はしていない)になった人です。
晴雨は、お葉を3年におよびモデル兼愛人としていたのです。
お葉と別れた後、女房の竹尾と正式離婚。
 
「お葉」について 
 
明治37年3月1日秋田県河辺郡に生まれる
■大正5年母ハナと東京に出る
母は納豆売りを。お兼は素焼き人形を作る工場で働く。

■ある日美術学校の教師の妻と名乗る人が尋ねて来て
今で言うところのスカウトをされる。
モデルがお兼だと、いつも教室は満杯になる程人気があった。
そして色々な画学生と関係を結ぶ。

■宮崎モデル紹介所で晴雨の目にとまり、責め絵の
モデルとして、愛人として3年間を過ごす。

その間に、美術学校へ通う傍ら、藤島武二のアトリエにも通う。
藤島は、お兼にとって父親のような存在で、肉体関係は、結ばれていない。
同時に、彫刻家のアトリエにも通い、彼とも肉体関係を結ぶ。
 
これは嫉妬に狂う夫人を見る楽しみだったというから、お兼は凄い女だと思う。
休憩時間は酒をあおっていた。
その頃妊娠。誰の子供かわからないまま流産。

大正8年。お兼15歳。竹久夢二が11歳年下の最愛の彦乃を失っている時に、画学生の紹介で彼と出会う。
当時高級下宿として多くの文士や芸術家に利用されていた本郷の菊冨士ホテルを夢二はアトリエとしていた。

「お葉」は夢二がお兼につけた別名である。
2人はよく喧嘩をした。夢二の求めるものと、お葉の求めるものとの食い違いが原因だった。お葉は、自分の感情を家出というカタチで表現した。

大正8年8月。2人は、お葉の故郷秋田に行く。
これは単に、お葉の機嫌取りだった。

■大正10年。夢二、お葉、お葉の母親と田畑の雑貨屋の2階に住む。
その後渋谷宇多川に家を持つ。

■2人の間に長男・与太郎生まれるがすぐに病死。
夢二は、画会で福島へ旅立っている。その間1度も子供を抱くことはなかった。
他の男の子だと思っていた。

大正13年8月。お葉再び家出。
夢二の気をひく為に、書生の小原と2人で姿を消した。
4ヶ月後、お葉は戻る。その後世田谷松原に夢二自らの設計で「少年山荘」を建て、移り住む。

はじめに■大正14年元旦。お葉「気の病」で床に伏せる。
その後、書生の小原と自殺未遂。一命は取りとめる。
それでも2人は別れる事ができずに、夢二の中でお葉を入籍する決心をする。
しかし、そこに秋田生まれの小説家の卵、山田順子(ゆきこ)との出会いがある。
彼女が現われなければ、夢二と別れることはなかったかもしれない。

大正14年7月。お葉と決別する。
昭和3年11月。お葉、大輪善治と協議離婚。
離婚後、お葉は、少年山荘に堂々と現われるようになる。
逢えば必ず、肉体関係を結んでいた。
 
夢二は新しい娘、17歳の岸本雪江を少年山荘に引き入れている。
雪江の手記によれば、最初の妻たまき、山田順子とも肉体関係を結んでいる。
彼女達が訪問した夜は、別の部屋に追いやられていた。

昭和6年4月。3歳年上の医師、有福誠一と結婚。
昭和9年9月。49歳で夢二死去。
■昭和55年10月。お葉76歳で死去。富士市泰徳寺に夫と共に葬られる。
 
 
 追記2)紫陽花氏のブログより
 
夢二とお葉・・・夢二は恋人の彦乃を亡くし、低迷状態にあった。
そんな時、本郷菊富士ホテルへモデルの面接で訪れたお葉と出会う。
 
細い体、瓜実顔、憂いのある瞳のお葉はまさに「夢二の絵から抜け出た女」だった。
夢二は田舎臭さの抜けぬお葉に流行の着物を着せ、文学や書、絵を見る機会を与え、『お葉』という名を彼女に付けて『夢二式美人』に作り上げた。
 
そしてお葉という最高の素材を得て、次々に作品を発表する。
実生活においてもお葉と夢二は恋人となるが徳田秋声の愛人 山田順子が二人の間に割って入り、お葉は夢二のもとを去る。
夢二は順子との関係を清算しお葉を呼び戻すが、お葉が夢二の元へ戻ることは無かった。
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