1年7ヶ月要した釧路市場攻略

 
 
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   私の履歴書316
 
釧路商業組合は、道内のみならず全国的に見てもレッド社&RK社の牙城。
 
注)機器メーカー・レッド社とは、イコール外資系食品メーカーRK社と提携関係。
尚、RK社とLL社とは業界を二分するライバル同士。
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釧路とは、札幌転勤を太秦社長から申し渡された時 「釧路商業組合の大黒
事務長(仮称)を潰せ! その手段として無償の機器を釧路市場に100台ばら撒け!」と言われていたエリア。
 
 
無償で機器をばら撒くにしても、組合を無視して釧路市場で展開する為には、兵力は3人要る。当初のこと、そんな余裕は無いですね。
 
最初の年は根室の松谷事務長、翌年は北見の岡本事務長の取り計らいにより、道東事務長会議での懇親会で釧路の大黒事務長と一献交わしました。
 
そこまでやってくれた松谷さんと岡本さんを無視して大黒事務長と直接対決は出来なかったですね。
 
更に、大黒事務長からは「急には出来ない。時間がかかる」と言われていますから待つしかない。
 
釧路組合事務所へは何回も訪問しましたね。
特に大黒事務長とは、なかなかアポ(面談予約)がとれず。
 
札幌から電話をし、アポがとれたとしても、翌日とか翌々日。
私の訪問要望が本物かどうか試されていたのです。
 
無論直近ですからスケジュール調整でひと苦労。
千歳空港⇔釧路空港日帰り往復が何度かでしたね。
 
 
千歳空港が雪で飛行機が飛べない場合、丘珠空港からYS-11に乗り換え。
帰路、釧路空港が霧で飛べない場合、釧路の社員に中標津空港まで送ってもらい、そこからYS-11丘珠空港の時も。
 
日帰りの場合は釧路空港からリムジンバスでJR釧路駅へ。
そしてタクシーで釧路川の幣舞橋を渡りました。
大黒事務長と会えたからと言って物事が進展する訳ではないのですが。
 
根室まで行く場合には釧路空港でレンタカーを借りました。
釧路→根室市街→花咲港→別海→中標津のコースで各組合と各理事長宅の他に、片端から根室管内の各商店を訪問しました。
 
 
それは1988年7月のことでした。
 
遂に大黒事務長が折れたのです。
レッド社以外に我社とブラウン社の二社も解禁となりました。
 
太秦社長には、早速電話をしました。
社長は不在で秘書に伝言を依頼。
 
「申し訳ありません。釧路を落とすのにお約束の1年ではなく、1年7ヶ月かかりました」
 
 
然し、当時の釧路の夜ってどういう訳かおぼろげな記憶しかありませんね。
結構飲み歩いたのですが、やはり地元の社員に案内されたらそうなりますね。
 
それに毎回予約を入れてくれるホテルの場所は釧路駅前ではなく、新釧路川の釧路大橋を渡らなければならない。
 
ホテルに荷物を置いてからタクシーで釧路大橋を渡り街中に入るのですが、宵の橋を渡るのに結構道路は混みましたからいつもうんざりした記憶。
 
釧路の繁華街は、つわもの共が夢のあとでした。
港も活気が無かったですね。
 
その昔の釧路漁港の最盛期の頃は「猫またぎ」状態だったそうです。
つまり、野良猫が魚を食べずにまたいで通り過ぎたそうです。
 
それはそうですね。毎日毎日、トラックの荷台から路上にこぼれる同じ魚を食べ続けていたら、猫でも飽きるのはうなずけます。
 
猫またぎの頃の夜の街は賑やかで、漁師の皆さんは200~300万円の札束を胴巻きに入れて飲み歩いたそうです。千円札の時代、一つの束は10万円でしたからお腹が出っ張っていたのは当然ですね。
 
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北見から釧路と根室に行く時に、国鉄JR)に乗車した事が一度だけありました。
 
石北本線から釧網本線でしょうか。
網走発6時40分。
 
座席は四人掛けで、中央の石炭ストーブがボンボン燃えていました。
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初冬でしょうね。

山の中を走る電車の窓から見える木々は未だ青いのもありましたから。
 
石炭ダルマストーブの上では、乗客のお爺さん達が干物やスルメを焼いています。

つまり、電車の中で静かに酒盛りなのです。
私も湯のみ茶碗で二杯いただきました。
 
まだまだお天道様が昇り切らない午前9時過ぎ。朝酒を嗜むとのんびりと時間が過ぎていきましたね。
 
走る電車もガッタン~ゴットンでしたから。
網走から釧路までの所要時間は四時間と20分。
 
11時、釧路駅着。


※ダルマストーブの画像はお借りしました。