雪の札幌で一ヶ月ぶりに家族と再会
前回のあらすじ)
ミーテングで彼等の話をじっくり拝聴。
処が、毎回終るのが夜が明けてから。
札幌の夜明けは、本州と違って早いのだ!
私の履歴書・257
1987年(昭和62年)1月下旬。
妻と二人の子供は、広島市翠町から家財をコンテナ二つに入れて出し、その日広島のホテルで一泊。
秋田の田舎でニ泊。
そして2月1日(日曜日)午後、秋田空港→千歳空港着ですね。
嬉しいものですね。
一ヶ月ぶりの家族とのご対面とは、恋しい人に会えた喜び。
無論、広島からインコ二羽(チィとター坊)の鳥かご持参の長旅。
飛行機の場合は、航空会社が用意した籠に入れ替え、常温室で。
その夜と翌日は、家族全員で北星会館(北3西18)にニ泊。
2月3日(火)は無風ながらも、天空から大きな白い雪がいっぱい降る日でしたね。
コンテナは、広島から大阪まではトラック輸送。
大阪湾から船。
そこからトラック輸送。
その日、私は北星会館から一旦会社に出勤後、10時過ぎにマンションへ。
程なく子供達がそっとドアを開けて入ってきました。
荷物の札幌のマンション着は、二時間遅れましたね。
除雪車が前を走っているから大渋滞とか。大雪でしたからね。
マンション管理人さんが部屋に来て、灯油ボイラーの操作説明。
「責任者、出て来い!」の人生幸朗(じんせい こうろ、相方・生恵幸子)さんによく似ている人。
管理人さんは、札幌雪祭りが始まったので早目に見た方が良いとのお達し。
翌日から子供達が学校に行き出したら、バタバタするからとのこと。
その日の夕方出かけました。
先ずは、夕食も兼ねてすすきのの「魚や一丁」へ。
ススキノグリーンホテル1(南4西1)の交差点を北に数軒上った東側二階。
どうやら、ここが「魚や一丁」の発祥の場所。(注)現在は無いようです。
狭い部屋の四人掛テーブルに案内されました。
満席でしたが、タイミングが良かったですね。
一品200円~250円でした。
野菜サラダはラーメン丼よりひと回り大きな丼に山盛り。
焼き魚のほっけの開きでは、今スーパーで売っている開きの倍の大きさ。
焼きソバも、大皿にてんこ盛り。
刺身の盛り合わせでも、大皿にいっぱい。
一切れが分厚く、しかも大根のつまなどは僅か。
全部で7品頼みましたが、テーブルに置けない。
しかも四人で辛うじて食べられたのは、この四品だけ。
残るレンコンのから揚げ等の3品は、容器を貰いまして持ち帰りしましたね。
それから大通会場へ。 (←この時の写真はここをクリック)
流石、札幌。
広島での防寒具では間に合わない。
30分もしたら、冷えて!冷えて!
家族にとっては体験した事の無い体全体を刺す寒さ。
この日の夜は、冷えましたね。
マイナス15℃位だったでしょうか。
妻も子供も「雪祭りはこれが最初で最期にしよう!」と言っていましたね。
でも、翌年以降も出かけましたよ。次回は夜ではなく、日中でしたが。
翌日、妻は小学校と連絡をとり、子供を連れて緑丘小学校に行きました。
上の女の子が五年生、下の男の子が一年生の時でしたね。
雪国ですから、冬季、体操の授業はスキーなのです。
流石、北海道!
余談ですが、
娘が大学時代や社会人の時、信州にスキーに行きましたら、皆が注目するぐらいの滑走だったそうです。
でも、小学生当時の娘は下手の部類に入っていましたから、札幌生まれで幼少時代に育った人のスキーの腕前は相当なものでしょうね。
家族に対して責務を果たしたような気持ちでしたね。
面白いことには、それから六年後の大阪のデパートで、妻が購入したオーバーコートと全く同じ物が、ほぼ同じ価格で売られていたのですから。
ファッションがいかに札幌で早く、いかに大阪で遅いかの代表例でしたね。
注1)
現在の『魚や一丁』 ←ここをクリック
国内20店舗(札幌4、仙台2店舗、埼玉1、東京都内6店舗、都下2店舗、川崎2、横浜2、千葉1)海外3店舗
注2)
当時の暦は、月齢サイト(←ここをクリック)の中の万年カレンダーをクリック