私の運命を変えた人との出会い

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今夜は、中秋の名月
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朝の曇りから、だんだんと晴れてきて青空。
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そして夕陽。
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どうやら、いいお月さんとめぐりあえそうです。
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でも、かぐや姫と会えるのは無理かも。


私の履歴書・188

本社FF営業部に私の直属上司として寺前課長(仮称)が着任しました。
この人との出会いが、その後の私の運命を大きく変えたのです。

彼の年齢は49歳。(私が38歳の時)
生家は、京都の老舗のお菓子屋。京都市左京区浄土寺

彼は、そこのボンボンとして育ちました。
大阪帝国大学(現、国立大学法人大阪大学)卒。

父親は学生の時に亡くなり、学生にして寺前一族の当主となりました。
つまり、お菓子屋の家業と、左京区浄土寺一帯に所有する不動産を相続したのです。

戦後、大学を卒業しても、家業は全て番頭に任せました。
ゴルフに夢中になったからです。昭和23年当時としては先駆的。

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(※)寺前さん(仮称)一族の墓地は哲学の道の近くにあり、
往時の繁栄を物語っている。

彼はゴルフ三昧の日々ですから、家業は依然として番頭任せ。
それから幾十年。気がついたときには、大借金。

浄土寺一帯に所有していた不動産を売却。
更に、歴史ある京都銘菓の登録商標や創業歴史まで売りました。

残ったのは、アパートが一軒と450坪の一族の墓地。
何れも哲学の道からちょっと西に入った所です。


その寺前さんとは、直ぐに意気投合しましたね。

最初の共通点はお互いに東山界隈の料亭を良く知っていたことでした。
京都老舗料亭・「岡崎つる家」(左京区岡崎)は彼のかってのホームグランドでした。

実は、岡崎には疏水べりに、似た名前の老舗料亭「つるの家」もあったのです。
この料亭まで知っていた人は、京都でも数少なかったでしょう。(今は無い)

東山・高台寺に隣接する料亭「京大和」の女将さんともお互いに知り合いでした。

我等の当時の合言葉。
「アフターファイブ以降も仕事をする人は、日中、仕事をしていないか、それとも能力に問題がある」

お互いに金曜日午前に出張から帰り、会議室で一年生の報告を聞いて次週の指示を与える。
それから出張報告書を書きあげたらのんびりしたもの。

終業時間が来ると、課長の机に碁盤を乗せて囲碁打ちを始めましたね。
彼は日本棋院三段。私は無段。

毎週、一度から二度は二人で居酒屋に出かけましたね。
共に熱燗好み。毎回二人で一升は軽くペロリ。

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時々、帰りの電車では乗り過ごしました。眠りこけてしまうのです。
ある日の場合は、大阪駅を越えまして尼崎駅で目覚めたら帰りの電車があったのです。

と言っても、大阪駅まで。
その時の大阪駅から帰りのタクシー代は一万円前後。

またある日の場合は、終点の西明石駅で起された時は、流石にタクシーに乗る気にはなりません。
二万円は軽くかかりますからね。

それに午前1時半ですからホテルに泊まる気もせず。
始発まで3時間半。駅待合室の青いプラスチックのベンチに横になる。

但し、一旦駅を閉めるので30分ほどは追い出される。
夜明け前の西明石は寒かったですね。

他方、課長も時々乗り過ごして安土や彦根へ。偶に米原駅まで。
翌週の月曜の朝は、お互い、女房に如何になじられたかの報告でした。


高知に二人で三泊四日の出張に行きました時ですね。
前倒しで仕事を済ませてしまい、翌日、朝起きてもすることが無い。

10時、ホテルをチェックアウト。さて何処で時間を潰すか。
高知市内の清酒「司牡丹」直営の居酒屋に入りました。

開店時間前でしたが入れてもらい、この店を出たのが午後10時。
何しろ11時間半、飲み続けましたから、お互い、腰が立ちませんでした。


一度、課長をカンカンに怒らせた時がありました。
居酒屋でそこそこ飲んで酔いが回り始めた頃、私、言ったのです。

「五十歳代の管理職は、管理の職を返上すべきだ!」
逆上しましたね。課長は、席を蹴って居酒屋を出て行きました。

翌朝は、いつも通り。
「寺前課長、おはよう御座います」で一件落着。その夕も居酒屋へ。

居酒屋の後、私の家で飲み続きをした事も度々。
飲んで乗り過ごし、タクシー代で女房に愚痴られるのがいやですからね。

飲み疲れた午前一時頃からは、お決まりの囲碁
朝まで。お互い、目がろくに見えない。半分眠りながら石を打つ。


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この頃、パソコンでシャープ製MZ-2000を購入しました。21万円台。
記録媒体は、今ではUSBメモリーやCD-ROMですが、当時は市販のカセットテープ。
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独学でパソコン言語の一つ・ベーシックを勉強し、自分でソフトを作成するのです。
色々とゲームを自分で考えて作って、子供に遊ばせました。


この頃の睡眠時間は毎日3~4時間。帰宅してはパソコン。
土曜・日曜は起床から丑三つ刻に寝るまでの大半はパソコンの前。

1年ほどで、眼底をやられました。当時のディスプレーは、白黒のブラウン管。
緑色のカーソルの点を見続けたからです。

ある時から、この緑の点を見ただけで吐き気を催すようになりました。
止むを得ません。パソコンは止めました。

パソコンを見ても目が大丈夫になったのは、それから12年後。
この時に購入したPCが富士通のFMVデスクパワー

あの時に、目さえ大丈夫なら、今頃は全く違った世界でしょうね。
空白の12年間、PCの世界は豹変していました。


つまらん話しでした!