価値観が全く違う人

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世の中、色々な性格の人がいますね。
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信じられないことを、平気でする。
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自分さえよければ全て良し。
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彼には、どんな過去があったのでしょうか。
両親は、幼少の頃、どんな育て方をしたのでしょうね。


私の履歴書・177

私の所属は、本社FF営業部広島駐在。
だから、広島営業所とは、財布の中身(勘定)が違うのです。

但し、私の日常の管理だけは、小橋広島営業所長。
これは、営業所の所長では、我等FF営業部の仕事の指導が出来ないことから、このシステムとなったのです。


1981年(昭和56)頃の事ですね。

或る日、小橋所長は、S電機広島営業所との奨励金交渉で、同席を依頼してきました。
それはBB課の商品での奨励金で、私とは課が違い無関係なのですが大抵私に同席を依頼してきます。

前回交渉の時は、私は出張で不在でしたので、小橋所長とその部下のBB課内堀課長が出席。

今回の交渉の一時間前に、急遽、所長は私にノートを広げました。
「水無瀬君、前回の交渉記録として書いたものだが、この20の数字を60に書き直したらどうじゃろうか」

見ると、20とは、20万円。前回交渉時のS電機広島の提示した販売奨励金額。
交渉時に鉛筆で書いた20万円の数字を60万円に書き直すと言うのです。

「所長、その手は余程の事がない限り使ったら遺憾と言ったでしょう」
「でも、今期の営業所はこのままでは赤字になる。何としてでも帳尻を合わせなきゃ」

「気持ちは分かりますが、相手の信頼を失いますよ」
注)ノートの書き方は、以前、三菱商事の部長代理に私が手ほどきを受けたもの←ここをクリック

「それに所長、前に言ったでしょう。交渉の時の記録は、鉛筆ではなく、シャープペンシルで書けって」
「同じ鉛筆なら良いかと思って」

「試しに、20の数字を消して60の数字を書き込んでみたら?」
彼は、20の数字を消しゴムで消してから改めて60と記入しました。

訂正したようには見えるかどうかは微妙でしたね。
「所長、それをコピーしてみたらどうです? 交渉の場でコピーを要求されるかもしれませんから」

予想通り、コピーしましたら、その60という数字だけが太く黒く写ります。鉛筆が違うのです。
所長は鉛筆を削ったり書く力を変えたりしたものの、ノートをコピーしたら訂正したのが明瞭。

「所長、やっぱり駄目でしょう」
「なあ~に、大丈夫! どうせ、前回、S電機は佐倉所長一人だけ。こちらは私と内堀課長との二人だから」

そうこうしている内に、S電機の佐倉所長の一行三人が来訪。
案の定、応接間でS電機佐倉所長は20万円と言い張り、小橋所長は60万円と主張。

「確か60万円だよな。なあ、内堀課長!」
「はっきりとした記憶は無いですが、確か、60万円と言ったと思いますよ」
と内堀課長は口裏を合わせる。

「佐倉所長、あの時の記録は?」

佐倉所長にとって不運なのは、前回、手帳にメモをしていない事でした。
これ幸いに小橋所長は、顔を真っ赤にし怒鳴り散らしましたね。


困ったのはS電機佐倉所長。已む無く販売奨励金は60万円に。
差額の40万円を工面しなきゃなりません。

結局、奨励金ではなく、後日、値引で処理されました。
但し、期末には間に合わず。

奨励金等での実質的な仕入価格を下げる交渉は正当な行為なのですが、やり方の問題ですね。
見方によっては、所長としての責任を果たそうとする意欲的な行為と看做されますが。



果たしてそうでしょうか。
劣悪なのは、部下の数字までも奪いましたね。

全国の支所BB課が不振に陥った時、本社BB営業本部では、新たな制度を打ち出しました。
本部は、全国の営業所長や課長に対して積極的な顧客訪問活動を期待して。

その新制度とは、所長・課長が新台を販売した場合、一台に付き2万円の別途手当てを支給するというもの。

それからというもの、小橋所長は、終日、事務所の電話口から離れません。
かかってきたら、事務員よりも早く電話をとります。

顧客から外出中の担当営業マンへ問い合わせが入ったら、彼はこう答えるのです。
「私が営業マンの上司の所長の小橋です。その件は、所長の私がこれから訪問しまして、所長の私が価格などを決めさせていただきます」

そういうなり、彼は車に飛び乗り、その顧客の店に駆けつけます。そして安値で即時契約。
本社に自分が販売したと報告したら、所長実績と別途の手当て2万円、もらえますからね。

部下の営業マン達は、不平タラタラ! 嘆く!嘆く! ぼやく! ぼやく!
「せっかく長期間訪問して、ようやく契約寸前までいっていたのに!」
所長の言い分 「他社に契約をとられるよりは身内で良かったろう!」


世の中には結構こういう輩がいるのですね。
自分さえ良ければ良い。


私がやられたのは、半端なことじゃなかったですね。
東京支店時代の青葉支店長にやられたのと同じ手法でしたね。

それは次回に。
その前にカップヌードルで借家五軒を持った男の話を思い出しておいて下さい。←ここをクリック



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写真は、秋に長男が生まれた翌春ですから、1980年(昭和55)ですね。
と言うことは、29年前。場所は、御覧の通り、広島市内の安佐動物公園



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私の履歴書 目次 30歳代編 目次(1)~(3)
http://blogs.yahoo.co.jp/minaseyori/folder/1495255.html

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