人の性格は変わらないもの

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当時の写真の一部が見つかりました。

広島・フラワーフェステバル第一回が五月の連休に開催されましたのは1977年(昭和52年)。
この写真は、御覧の通り1981年ですね。 今ほど大きなお祭りになるとは思いませんでした。

札幌のよさこいソーラン祭りの第一回は、私が札幌を去ってから二年後の1992年。
こちらも、いつの間にか大きなお祭りになっていますね。


私の履歴書・174

人事異動が発令されました。

福岡の早撃ちマック青葉支店長が、本社・我等のFF営業部・部長に。
後任として広島・辰巳所長が栄転し、福岡の支店長に。

辰巳所長の後任には、金沢から小橋所長が広島営業所長に着任。
彼は私と同じ年齢。出身地は京都市左京区

東京の私大を卒業し、新卒で入社。
社歴十年ちょっとですね。

新任小橋所長の最初の赴任地は東京支店。以後、広島→静岡→金沢。そして再度広島。
元同僚の話では、東京や広島時代は全くうだつが上らなかったそうです。

それもそうでしょうね。品格が無い。
東京では、到底勤まらない。

特に拙いのは、ピチャピチャ音を立てて食べること。
これじゃ、接待する程、顧客が離れていく。

それに私やBB課の直属部下を呼ぶのに「キミィ~、キミィ~」。
部下の連中は怒る。たかが十人くらいの名前等はちゃんと覚えよ!って。

他方、広島の営業所長の伝統行事は、役所のOBと連れ立って、現役役人と接待麻雀をすること。
OBは翌朝、事務所で密かに毎回ぼやく。

「何であんなに威張りたいのか?」
役所の中でも現役役人を「キミィ~、キミィ~」と呼ぶそうな。


更に所長は、当初、コミュニケーションを図る為に部下と麻雀。
処が彼の麻雀とは、とんでもない麻雀。

彼の捨てた牌(パイ)にロン(当り)と言うと、捨てた牌を引っ込める。
「捨てる牌を間違った!」と言いながら。

何の恥もなく。点5の金がかかっているのに。
そのうち、所長に誘われても誰もメンバーに入らなくなりましたね。


こんな調子ですから、小橋所長が着任してから、営業所の数字は落ち込むばかり。
毎日毎日、威張っていた彼が、間も無く泣きを入れてきました。

「水無瀬君、私は誰でも入れる大学卒で、それに広島には人脈が無い。
こんな私はどうしたら良いのでしょうか」

普段、威張り散らしている彼にこんな風に言われますとくすぐったい。
「さぁ~~、分からん」と言おうと言葉が喉まで出てきましたが私も人の子。


彼の性格では将来裏切る!
と思いつつ、困っている彼を助けてしまったのです。お人好しですね。

「所長の卒業したP大の在学生の数を知っていますか?」
「うぅ~~ん、日本で一番多いことは分かりますが」

「確か、六万人のはず。他の大学では多くてもせいぜい二万人」
「でも、数が多いだけですから」

「それじゃ、これまでのP大卒業生の人数は概算で何人?」
「分かりません」

「明治時代に創立したのですよ。少なくても、日本の全四大卒男性人口の1%はP大卒業生ですよ」
「そんなにいたのですか。卒業生が多いのは分かりましたが、それが何か?」

「つまり、日本のあらゆる場所に、必ずP大OBがいますよ。これがP大の威力。」
「数だけは確かに」

「千人の企業でしたら20人はいますよ。そこそこの年齢なら、そこそこのポジションに就いているはず。
早速、P大の卒業生名簿を買いなさい」
「買ってどうするのですか?」

「卒業生名簿には、住所と勤務先・役職名が記入されています。
その名簿の中から広島在住の人を探して、アポ(アポイトメント面会予約)をとることです」


こういう時だけ、彼は素直に直ぐに動きましたね。
間も無く卒業生名簿を入手したとのこと。


「水無瀬君、名簿の中に国鉄中国支社の資材係長がいましたよ。それに、その係長はP大運動部の先輩!」
「オォ~~! それそれ! 直ぐに国鉄広島に電話を!」

「電話番号が分かりません」
「職業別電話帳で。そして国鉄広島の代表電話にかけて、相手の部署と名前を言ったら電話を回してくれますよ」

「あっ、そうか。でも、会ってくれるでしょうか?」
「何を物怖じしているの? 電話口で運動部の先輩!先輩!と何度か言いましたら、必ず会ってくれますよ」

彼は、国鉄広島に恐る恐る電話。
彼の予期に反して、すんなり面談。

流石、P大ですね。間も無く国鉄中国支社の取引口座開設が出来、この年の秋には小物受注。
翌春には、150万円程の物件を随意契約で受注。

小橋所長の鼻は、益々高くなるのでした。
ピノキオもどき。手のつけられないほどに。
                             つづく