広島の将軍さまを、交渉の場に、こうして引きずり出しました

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並な言葉で言いますと、人生、色々ありますね。
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絶対絶命とか、不可能とか。
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四面楚歌でも、何処かに道はある。
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結果を恐れたら何も出来ない。
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新たな道を開くのは、『果敢』。

私の履歴書・167

当時の広島営業所のBB課の連中は、東京BB課と全く同じでした。
朝礼が終わると「行って来ます!」と言って会社を出る。

行き先は、極秘の溜まり場の喫茶店グリーン。場所は、宇品東二丁目宇品消防署の北隣の2F。
ここで、朝から駄弁る。時には夕方まで。

彼等は、ひたすら客から事務所に注文の電話が入って来るのを待つ。
実績があがるわけは無い。

やがてインベーダーゲーム機の全盛期。これは喫茶グリーンには無く、事務所の近所の喫茶店に有る。
彼等、ここに朝から入りびたりが、所長にばれて、この喫茶店への出入り禁止。


さて、

1979年(S54)春、本社FM営業部タケちゃんマン(宮本課長)と広島で打合せをしました。
それまで、タケちゃんマンの考え方は、顧客への直接単品販売が全て。

処が、会社トップの意向により、量の販売・売上額のアップに政策変更。
売上規模で言いますと、森下仁丹任天堂を追い越した時ですね。

大阪・京都・名古屋・東京の各FM課の販売は、S電機製造C食品メーカーのロゴ(シンボルマーク)の入ったマーク機(以下C機と称す)。これを月間70台前後販売していましたね。

注)S電機との会社全体の取引規模は、この当時で年間50億円。約二万台。
この五年後が年間120億円。最盛期が年間170億円。


処が、中国地方だけは、このC機の販売不可。
ここでは広島・宇野食品とそのグループが、C機の販売を独占していました。

C食品が未だ弱小の頃からこの地方で取り扱っていた宇野食品に、C食品広島支店も頭が上らない。
その状況のもと、広島でC機を販売するにはどうしたら良いか?

C食品本社もC食品広島支店も、中国地方は宇野社長の了解を採るようにとの仰せ。
宇野社長に面談申し込みの電話を入れますが、拒絶の連続。何しろ通称『宇野将軍さま』。

無理も無い。我等はマークの無いものを改造し販売。
宇野食品の販売したC機を次から次へと店頭から撤去。宇野社長は、カンカンでしたからね。

通常の交渉の仕方では、埒(らち)が開かず。どうしたら、宇野社長を交渉の場に引きずり出すか。
C機を製造している大手S電気も我等を無視。四面楚歌。

無論、S電気から我等広島でC機を仕入れる事を拒否されている。
C食品並びに宇野食品担当のS電機松山主任は、私をうっとうしい奴とばかりの目付き。


ここは、一発勝負。三国志流で言えば、赤壁の戦い

先ずは、大阪支店名でS電気にC機100台を発注し、関西倉庫に入れてもらう。
その倉庫から、お抱えの運送会社の11tトラックで三回に分け広島・日通宇品倉庫に運んでもらう。

他方、大阪支店で使っていたC機の写真入ダイレクトメール(往復はがき)を広島営業所名で印刷。
広島県山口県の商店に一万通郵送。

返信が来た先から訪問し、片端から契約。C機を設置して行きました。

宇野社長、当初は勘違いし、自分の会社の営業員が販売したものと満足。
処が、一気にバタバタと着いたものですからびっくり仰天。


蜂の巣を突っついたような騒ぎになりました。
                            つづく