「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い」の袈裟の私
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さてさて
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1974年東京支店転勤当時私が青葉支店長にやられたのは、山村部長の部下だったからです。
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つまり、山村部長と青葉支店長は犬猿の仲。
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坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い。
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私にとってはエライ迷惑なことでしたが、逃れる術は無かったですね。
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さてさて
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1974年東京支店転勤当時私が青葉支店長にやられたのは、山村部長の部下だったからです。
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つまり、山村部長と青葉支店長は犬猿の仲。
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坊主憎けりゃ、袈裟まで憎い。
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私にとってはエライ迷惑なことでしたが、逃れる術は無かったですね。
処が、S43年頃、食品機器の夜間メンテナンス対応での時間外労働問題で労働組合と争議していたA社(東証一部)は、JC社(現 東証一部)に相談。JC社は、A社に太秦電機㈱を紹介。
太秦電機㈱は、A社製食品機器の総発売元となり、販売とメンテナンスを一手に引き受ける。
太秦電機㈱は、A社製食品機器の総発売元となり、販売とメンテナンスを一手に引き受ける。
彼は先行しているH製作所の唯一の販売チャネルである東京販社の安本社長を懐柔。
昼は、安本社長と帝国ホテルや東京プリンスホテルのレストランでサーロインステーキ。
新宿副都心で一番早く出来た超高層ビルの京王プラザホテルが竣工したS46年以降はこの京王プラザへ。
夜は、歌舞伎町で接待。
新宿副都心で一番早く出来た超高層ビルの京王プラザホテルが竣工したS46年以降はこの京王プラザへ。
夜は、歌舞伎町で接待。
他方、当時一番の顧客になってくれたのが澁谷商業組合。
二番目が杉並中野商業組合。
二番目が杉並中野商業組合。
それから二年後
山村課長は安本社長を接待していない時でも、昼はホテルレストラン、夜は歌舞伎町。
お気に入りの部下を連れて連日。
お気に入りの部下を連れて連日。
だが、青葉支店長をば、決して誘わない。
小ばかにしていたのですね。支店長は企業間同士の交渉が全く出来ない人でしたから。
小ばかにしていたのですね。支店長は企業間同士の交渉が全く出来ない人でしたから。
他方、青葉支店長は、毎月の本社会議でしっかりと叱られます。
何しろ、山村課長の使う接待交際費は半端じゃないですからね。
何しろ、山村課長の使う接待交際費は半端じゃないですからね。
青葉支店長は、山村課長に注意するのですが課長は完全に無視。
東京支店の月次決算は接待交際費で赤字。支店長のボーナスはカットの連続。
東京支店の月次決算は接待交際費で赤字。支店長のボーナスはカットの連続。
青葉支店長の立場からいいますと、本社会議では毎月叱られるし、課長は言う事をきかないし、小ばかにはするし、挙句の果てにボーナスはカット。頭がチャビンと言えども毎日が怒髪衝天。
1974年(昭和48)春、東京支店山村課長は本社に新しい我等の部を創設してその部長として転勤。
ようやく東京支店は青葉支店長の天下となったのです。
ようやく東京支店は青葉支店長の天下となったのです。
私が、東京支店に着任したのが、山村部長が東京支店を去ってから一年後。
そんな状況とはつゆ知らず。
そんな状況とはつゆ知らず。
支店長にしてみたら、
「水無瀬(私)は憎っくき山村の部下!」
「飛んで火にいる夏の虫!」
「恨みはらさでおくべきか!」
とんだところに転勤してきたものですね。「飛んで火にいる夏の虫!」
「恨みはらさでおくべきか!」
余談)
夕方、金魚の糞の平間君と歩いていると、偶然、支店長の奥方と出会いました。
奥方は、いつも薄化粧で知性と教養に溢れた姿。細身で瞳がぱっちし。当時30代半。
奥方は、いつも薄化粧で知性と教養に溢れた姿。細身で瞳がぱっちし。当時30代半。
平間 「いやいや、そんなこと、するはずがないでしょう」 注)手を横に振りながら。顔に赤み。
奥方 「平間さん、ちゃんと分かっているのですよ」
奥方 「平間さん、ちゃんと分かっているのですよ」
平間 「はい、支店長はいつもの早撃ちマックでした」 注)顔はゆでだこの如く真っ赤になって。
奥方 「あはは、カラスの行水のパタパタだからね」
奥方 「あはは、カラスの行水のパタパタだからね」
いらんことを書きました
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