偶にしか会わない人との会話のリスク

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今の日本。望むのは一刻も早く衆議院解散総選挙
そして新しい日本でスタートを切りたいものですね。
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さて、
この話も、1975年(昭和50)ですね。
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我等の営業部所属で福岡支店駐在の海北主任(仮称 かいほう主任 当時41歳)が東京に来ました。
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お子さんが夏休みですから有休をとって家族四人で東京に遊びに来たのです。

私の履歴書・151

福岡からの便の到着時刻午後一時。私の羽田空港の到着ロビー着が一時半。
ですから間に合わず。

さてさて、これではもうゲートを出て待合室に行っているかも。
待合室探しでうろうろ歩いていますと呼び止められました。

「お~! 水無瀬君。これから社長とインドネシアに行くのを良く知っているね。わざわざ見送りに来たのか!」
とんでもないところで出会ったもの。

まさか、私の勤務時間中、休暇をとって遊びに来た同僚家族を空港に迎えに来たとは言えない。
私は、首を縦に振りただニコニコしていました。

「水無瀬君、昼飯未だだろう」
「いえ、軽く食べました」

「君は若いから未だ入るな。昼飯をご馳走してあげるよ」
「いえいえ、もう沢山です」
「遠慮するなよ。丁度社長の昼食が未だだから社長と一緒に食べなさい」

社長と空港内のレストランに入りました。
社長はビーフステーキを私のも合わせて二つ注文。

私にとってはただでさえステーキの脂身を見ただけで吐き気がするのに。
それに満腹状態でしたから最悪でした。

社長「水無瀬君、仕事はどうかね?」
私 「お陰様で今月は予算通りに進んでいます」

社長「今、何を考えているのかね?」
私 「今、面白いと思うのは、ガムです。昔からのチューインガムとか甘いのとかハッカの入っているものとか色々あります。でも、何か、新しい分野、新しい目的のガムを創れるのじゃないかと思います。」

社長「日本のメーカーの他に世界で有名なガム会社が数社ありますよ」
と言って社長は各メーカーの製品特徴を説明してくれました。

ようやく社長達の搭乗する時刻がやって来まして、ゲートの中に消えました。
やれやれ、とんだハプニング。お腹はパンパンで吐きそう。

時計は三時過ぎ。急いで待合室に行きました。
そこには、今か今かと待ちわびる海北一家。

実は、お子さんが酔って、椅子に横になっていたとか。
それで一時間弱遅れて到着ロビーから出てきたのだそうです。

車に乗せて都内を走りました。にわかバスガイド。
夕食は辞退したのですが、是非に一緒にとの彼の奥方。

やむを得ず。空港での脂身が未だ消化し切れず胃袋に残っているのに。
体調回復のお子さんが望むのは、熱い鉄板の前でのサイコロステーキ。
死ぬかと思いました。


それから一ヵ月後、インドネシアからヨーロッパを視察した山村部長が東京にやって来ました。
私へのお土産はモンブランのボールペン。紺色。国内では当時一万円の代物。

その日は、山村部長と広尾の大手メーカー本社訪問。
以後、子会社の役員に案内されて横浜へ。そこには日本に未だ数台しかないテレビテニスゲーム機。

都内に引き返し、別の子会社の役員会に出席。
この会社の役員の慶応大学出身と早稲田大学出身の二人、いつも激しく争っている。
「やれやれ、早慶戦がまた始まった!」と揶揄。

赤提灯に灯りが点いたころ、ようやくその日のスケジュール終了。
二人でいつものビヤホールへ。ライオン サッポロビール池袋東店。

「水無瀬君よ、君、社長にいらんことを言ったからしっぽりと叱られたよ」
「何か考えている事があるかと聞かれたので、ガムの話をしただけですよ」

「それが問題なのだよ。自分の仕事に集中していないとね。
今月、売り上げ予算は達成出来るとしても、この状態がいつまでも続くとは限らない。
今から、来期の為にどう手を打っておくかを言うのが本筋だよ」

「ごもっともです」
「かなりしつこくやられたよ」
「すみません」
「よし、この話はここまで。じゃんじゃん飲んでよ」


ほっとしましたね。勤務時間中、福岡の海北さん家族を迎えに羽田空港にいたことはバレていない。

他方、新たな問題が発生。
社長が空港での私のガムの話しを問題あり!と言った事で、青葉支店長が益々私批判の語気を強めることになりました。

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余談ですが、子会社の役員と横浜にテレビゲーム機を見に行きました顛末です。

初期のテニスゲーム機で米国から輸入したもの。
この時は、日本には未だ横浜に数台あるのみ。

子会社の役員は、これを我社で製造しないかとの提案でした。
試技してから早速分解。大きな基盤が数枚縦に並んでいました。

この基盤に付いているチップは当時の日本には無い。
原案では、当初は米国から基盤を輸入し、他の箇所は自社で製造。
それで時間稼ぎをしてから、以後全部自社で造るというものでした。

一週間後、この案に対して、アーケードゲーム業界の大手が諸手を上げたとのこと。
そこでロット毎の製造原価計算をし、ゲーム業界への納入価格を検討。

処が、ゲーム機業界は、ヤの字の組織とのつながりが深い。
社内では、この業界への参入に反対の声が沸きあがりました。
参入すれば、公官庁ルートを失う恐れがあると。

社内調整でもたもたしているうちに、それならとアーケードゲーム機メーカーが自社生産の動き。

電子技術が刻々と進化している情報がその都度入りますから、社内でこんな状況では時期を失する。
参入は断念。


その後、この業界に一時的ですか急遽参入したのは、それから四年後のインベーダー全盛期。
取引先数社がどうしてもとインベーダーゲーム機を要望しましたので生産開始。

基盤の生産ラインだけはパーツが揃わず自社で組めない。基盤は日立製作所に依頼。
組み立て等は自社で行い、短期間に一万台だけを作り即時完売。以後、撤退。