アルバイト一ヶ月目で突然家電店長に

私の履歴書・89

イメージ 1いよいよ今日からオリンピックが始まりますね。
せめてこのオリンピックの期間中、爆破等、起きないで下さいよ。
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この写真は、昭和45年9月18日、亡き父が出席したある組織の全国連合会北海道大会の記念品。
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トワエモアが歌った『虹と雪のバラード』が懐かしいですね。


下記の記事は、この頃、昭和43年(1968)の秋から昭和44年春にかけてだと記憶しています。
丁度40年前の事ですね。


《アルバイト家電店長奮闘記 ①正社員全員の辞職》


化け猫屋敷に住んで直ぐにアルバイトを探しました。
手持ち金は僅かでしたからね。

京都新聞の三行募集広告に七条の家電店の募集がありました。
徒歩で5分弱の所でした。当時、七条通りにはチンチン電車が走っていましたね。

11月初めに勤め出して一ヶ月弱、5名いた男子社員と女子事務員1名の社員6名全員が、ボーナスが少ないと言って辞めたのです。

残ったのは、アルバイトの私と、もう一人の19歳の浪人アルバイト。
仲山(仮称)社長は私を呼んで、この店をアルバイトの私に任せると言うのです。びっくりでしたね。



この家電店のそれまでの概略を述べてみますと、

以前は無電社と称しまして、昭和30年代半ばに京都市内に五店舗を持っていたのです。
今の東証一部上場の上新電機(大阪日本橋)が茨木市に新店を出したのが昭和38年。

その数年前に彼は既に家電量販店事業を軌道に乗せていたのですから。超やり手!
そのままこの事業を継続していましたら今頃は凄い一流会社になっていたでしょうね。

当然、時代の革命児と関西財界ではもてはやされたそうです。何しろ30歳代の事ですからね。
その仲山社長が「ミス京都」の女性に一目ぼれ。奥様がいるのに。

一方的に離婚を宣言。処が奥様とは離婚裁判で負けました。当然ですね。
結果、五店舗のうち三店舗を奥様にとられ、一店舗を閉鎖して、残った一店舗が私のここバイト先。

その時の社員は皆奥様の店舗に行きましたから社長は従来通りの事業の継続は困難でした。
そこで社長はこれまでの物売り主体を改め、中小企業に金貸し業を始めたのです。

貸した相手先は銀行からお金を貸してもらえない零細企業が多かったですね。
貸し先とトラブルや倒産となりますと必ず登場するのが貸し先の関係するヤクザ。

都度、ヤクザに半殺しにされるのです。当時でも何処かに監禁簀巻きにされて三日三晩帰って来ないのは普通でした。難波金融伝 ミナミの帝王萬田銀次郎竹内力 主演)とはエライ違いですね。



社長は貸し金に関しては一歩も妥協しない人ですからね。
故に、ヤクザから開放されたら直ぐに警察に泣き込むのです。

毎回警察にたれこむのですからヤクザ連中からは「泣きの仲山」と言われていました。


この金貸しで忙しい社長が私を呼んで「電機店を任す!」と言うのですから。


                                    続く
続き)
No.90《アルバイト家電店長奮闘記 ②お姫さん抱っこ》
^^^^^可愛い人妻の事務員さんも辞める事に。こうなったら非常事態。人妻を抱っこして一ヶ月延期。
https://blogs.yahoo.co.jp/minaseyori/54390926.html


追記)2013.01.18

浜大津⇔今津(琵琶湖の湖西)を走っていた江若(こうじゃく)鉄道が、昭和44年10月30日に廃線となったとのこと。

この頃ですね。私が仲山社長の使いで、この江若鉄道に乗って今津まで行ったのは。
当時は、すすきの中をかき分けて進む電車でした。


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