それは、お花畑の行楽地大学


《二度目の春》

 居酒屋横居ののれんをくぐると、いつもの手ぬぐい鉢巻の板前スタイルの横居さん。


「どうじゃった?」
「アカン! もう、試験、受けへん」
「もう一つあったんじゃ?」
「うん、でも行かひん」
「そんじゃ、高い受験料、もったいないさかい、受けなはれ!」


横居の奥さんは、私の飲みかけのビールビンを取り上げました。
「酒は飲みなさんな。そやそや、煙草も止めなはれ!」

煙草は、パカパカ吸っていましたね。
何せ、両切りショートピースを日に4箱40本以上は吸っていましたからね。
この煙草は、実はタダ。(この話は後日)

当時、私の左手の人差し指と中指の付け根はこげ茶色。ヤニとニコチンで。
街のワン公がどんなに吠えていても、私の左の指を差し出すと「クウ~ン、クウ~ン」。

私自身が自分の指を嗅いでさえも心地よいものでした。
それもそうですね。徹夜麻雀の朝は、顔が緑色でした。10箱は吸いましたからね。

その翌日の一日間だけ煙草と酒は止めてみました。
翌々日に煙草を吸いますと、頭がクラクラ。こりゃ遺憾!
数日間、禁断。仕事を休んで二つ目の受験をしました。

不思議でしたね。
三科目共、スラスラでした。数学は恐らく満点だったでしょう。

そういえば、現役の時の受験で東京に一ヶ月間いた時、緊張の日々で精神的に持たない。
そこで発売されて間もない70円のハイライトをパカパカ吸っていましたね。







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《再度の新入生》

D大入学式とその後の一週間程のオリエンテーションには出席しませんでした。
前の大学の時に出席しましたから、概要は知っていますからね。
受講科目の届け日の最終日に大学に行きまして書類を提出。

さて、いよいよ授業が始まりました。
語学の教室に入ってびっくり。女性が多い事と、なんとまあ、若いこと!

団塊の世代!! 皆、背が低いし中学生のように見えました。
たった三つしか違わないのに、皆、初々しい!

それに、以前の大学では男ばっかりでしたから、眼のやり場に困りました。
原色の半袖にミニスカート。学園の中は行楽地でした。Gパンが流行る前の時代ですからね。


わたしゃ、おっさん!!
アナ!照れくさや!恥ずかしや!

拠って、前の大学1年の時と違って、クラスの飲み会や行事等、一切出た事が無いのです。
無論、同じクラスの学友と称する人は一人もいませんでしたね。在学中。

それもそうですね。第一外国語の英語の授業出席は最初の何回かだけ。
この単位を取ったのがそれから二年後。その時の同級生とは五歳違い。

つまり、私の高校時代でしたら、彼女等は小学5年生~中学1年生!







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《独語の試験》

第二外国語は、最初の大学と同様、ドイツ語をとりました。
二回目ですから楽でしたね。尚、教え方は、前の大学の教授の方が上手でした。

話しは飛びますが、後期試験の前のドイツ語の最後の授業の時でしたね。
私は、途中睡魔に襲われ、眠ってしまい、授業が終わってから起されたのです。

そして、幾日後かにドイツ語の試験。
ナニナニ!!辞書持参だって???

その日、何故か持つのが面倒になり、辞書は持ってこなかったのです。
参りましたね。ドイツ語での長文を読んで、設問に答えなきゃならないのです。


教授が私の席の横に立ち「君は、前回、授業に出席していたはずだね」とね。
私「はい!出ていました」
教授「その時に、テストは辞書持参と言ったはずだが」

私、後ろの席で眠っていたとは言えませんでしたね。
こうなったら、ヤケのヤンパチ!

分からない単語は勝手に解釈し、全問、スラスラよどみなく書きましたね。
確か、68点でクリアーしたはずです。

こんな事も、あるのですね。


追記)2008.11.03

先月中旬秋田の田舎の空き家を整理していましたら、私の当時の成績表が出て来ました。
1971年(S46)大学四回生を終了した時点での私の単位取得状況は

     合計 取得は62単位 (卒業不足単位数は80単位前後)

この時点で、第二外国語(独)が8単位(二年間)と体育実技ニ単位(二年間)残っていましたから、
五回生と六回生の二年間、六歳から七歳下の女の子達(19~20歳)と一緒に授業を受けていたのですね。

特に、女の子達と一緒の体育の実技の時は、親父と子供の雰囲気でしたね。アハハ!!