能因法師(百人一首69番)の碑の陽春

イメージ 1

上宮天満宮の近く、百人一首で知られている能因法師墳<のういんほうしふん>に行きました。
天満宮の鳩のフンとは全く違うフンですよ。


能因法師(988年~1058年頃?)といえば平安中期の歌人中古三十六歌仙の一人ですね。


「嵐吹く 三室の山のもみぢ葉は 龍田の川の錦なりけり」  (百人一首69番・後拾遺)


「都をば 霞とともにたちしかど 秋風ぞふく白河の関」   (後拾遺518)



彼は、平安貴族・文化人にとってあこがれの地、奥州(東北・みちのく)を旅しました。
その後、能因法師を慕って平安後期には西行、江戸時代には芭蕉がみちのくを旅しています。

尚、私の生誕地の麓、象潟(きさかた・秋田)に能因法師は三年間隠栖(いんせい)しました。
無論、彼の亡き後、西行法師も芭蕉も、ここ象潟を訪れ俳句を詠んでいます。



その彼は、摂津の古曽部(こそべ・大阪府高槻市)に居住し、『古曽部入道』と称しました。
ここに住みましたのは、恋が破れたからでしょうか。



彼は、伊勢姫に恋をしました。伊勢姫(877年?~939年?)は三十六歌仙の一人。
古今和歌集』・『百人一首』でもご活躍ですね。恋人は天皇や権力者の息子とか。

「難波潟 短き芦の父子の間も 逢はでこの世を すぐしてよとや」 (伊勢・百人一首19番)



写真は、レンゲ(←修正)。碑の前で一杯咲いていましたよ。



イメージ 2

「わがやどの 梢の夏になるときは 生駒の山ぞ見えずなりぬる」 (後拾遺167)


ここ、古曽部の里で詠んだ能因法師の歌です。
普段なら、水無瀬と同様に、奈良の生駒山が観えていたでしょう。

写真は、彼の住居跡と墓地(能因法師墳)です。


イメージ 3 イメージ 4

墳墓正面の顕彰碑は、慶安3年(1650)、高槻城永井直清が建立しました。
これは、水無瀬に建つ「待宵の小侍従の碑」と同じですね。

碑文は儒学者林羅山によるものです。


イメージ 7

花の井(井戸)です。(能因法師墳から東へ徒歩5分)

この井戸は能因法師の歌に詠まれています。

『あし引の 山下水に影みれば 眉しろたへに我老いにけり』


イメージ 8 イメージ 9

現在は清水も涸れ荒廃し、石垣のみ存在します。


イメージ 5 イメージ 6

不老水の井戸です。(能因法師墳から北西へ徒歩5分)

能因法師が不老不死を願って煎茶に用いたと言われ今でも湧き出ています。

能因法師が敬愛する伊勢姫も茶の湯に使ったと言われていますから、気持ち、分かりますね。



イメージ 10

最後に、能因法師の和歌を二つ。


「ねやちかき 梅のにほひに朝な朝な あやしく恋のまさる頃かな」 (後拾遺788)


「世の中を 思ひすててし身なれども 心よわしと花に見えぬる」 (後拾遺117)


写真は、能因法師墳の前で咲いていたヤハズエンドウです。
何となく、和歌と心が通じる花ですね。