親子のテレパシー

私の履歴書・64
《二人で建てた山小屋》

イメージ 1店主が、私達の住む部屋は自分で作りなさいと言うのです。
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場所は、徒歩5分弱の元うなぎの寝床をつぶしてガレージとしている場所です。
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私と27歳の仲根(仮称)さんとの二人で家を建てましたね。
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二人とも、大工仕事は全くのアマチュア
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と言っても、それまで仲根さんは、このガレージに鶏小屋のような三畳の平屋を建てていました。

この時二人で建てた家は、土台は駐車場のコンクリート。その上に工事用の高さ2m直径15cm程の鉄柱四本を立て、その上に六畳間と半畳の押入れ式ベット上下。

まあ、インドネシアの木の上の山小屋みたいなものです。
横に取り付けた階段を人が歩くと、部屋全体がゆらゆら揺れる代物でした。

その後、その隣に、四畳半に半畳の炊事場付きの二階建ても建てましたし、木の上の山小屋の下にも一部屋作って、鉄柱を外しました。無論、違法建築。

うなぎの寝床の地形の利点は、奥で何をしていようが入り口は狭いですから表からは見えないことです。



《800km遠方の親父の事故を夢で知る》

 さて、いよいよ入居です。当初、この山小屋には、私とR大三回生の二人だけ。
しかし、店主は、部屋をどんどん作れると分かると、次から次へと新規採用をしましたね。

 結局、この部屋には四人の住居。
東京芸大を中退して京都に来た真っ黒い髭もじゃもじゃの藤村君。
R大ニ回生の越生君。彼の夜のアルバイトは木屋町の高級ナイトクラブ・メトロのトランペット奏者。
 
 ある日の深夜、私は夢を見ました。
親父が自転車に乗っているのですが、砂利道に前輪をとられ転ぶ瞬間でした。

「危ない!」と私は夢の中で大声をあげて- - - - - - - -
目が覚めたら、暗闇の中、私の顔の直ぐ前に越生君の顔。

彼は「ウ~~ン、重たい! どいて」と寝ぼけたまま。
押入れ式寝台から彼の上に落ちたのでした。


親父の身に何か起きたな!と直ぐに思いましたね。

その年の12月、皆で、大阪・日本橋の電気街に行きました時に、電気毛布を買って親父に送りました。
縁を切らせていただいた親父に。


その時、実際、親父が自転車で転んで肋骨を六本折ったという話を聞いたのは一年半後です。
やはり、親子なのですね。



(追記) 2011.12.21

《生きていた遊郭 初島

昭和42年だったと思いますが、東京芸大を中退して京都に来た真っ黒い髭もじゃもじゃの藤村君(仮称)』が面白いところに連れていってくれるというので夕方から出かけました。

彼は私より3歳年上の25歳だったと思います。
彼の自慢は、NHKの脚本募集に友人二人で応募し、賞金20万円を貰ったとのこと。

イメージ 2
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電車で行ったのは、尼崎市初島というところで、着いた時にはもうすっかり宵闇。
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どのくらい歩いたか記憶にないですが、奥が明るい街の一角の路地に入って行きました。
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びっくりしましたね。
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(注)左の画像借用先 http://blogbu.doorblog.jp/archives/52334833.html
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その光景は、小学校や中学校の時観た東映のチャンバラ映画に出てくるシーンと瓜二つの遊郭
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この時観た格子の柱は太く、まるで牢屋のようでした。
その格子の隙間から長襦袢を着た女性達が指名を待っているのでした。
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道には所謂やりて婆という老いた女性が袖を引っ張ります。
私はおっかなびっくり。彼の後を追って歩きます。
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藤村君は都度やりて婆に「もう済みました」と言ってその一角を歩き回りました。
こういう状況を見たのはこれが最初で最後でした。

日本で売春禁止法が制定されたのが確か昭和33年4月で私が中学1年になったとき。
もう、こういう遊郭は無くなっているものと思っていましたが、残っていたのですね。