学生の街・京都の歴史的わけ

ほっこり京都人(7)


《初めて見たうなぎの寝床》

京都に来た最初の春(昭和39年)、大学の友人の新たな部屋探しに付き合いました。
学生課で紹介された場所は、上京区千本中立売近くの路地。(北野天満宮にほど近い南)


イメージ 1
木戸をくぐると幅一間程の土間(土の通路・両側が狭い通り庭)。
10m程進み、突き当たりを右。更に進んで左へ。更に左へ。そして突き当たり。
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土地の形は、手桶状。柄の先が玄関の木戸。柄が通路の土間。桶が建物。
紆余曲折している奥は二階建てなのですが、中二階もある。
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100年は経っているだろうと思える木造外壁。
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イメージとしては、外側が窓の無い木造体育館で、中が丸太組みの山小屋。部屋は蜂の巣状ですね。
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初めて見た別世界。江戸時代へ?タイムスリップですよ。
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部屋数は三畳間50個程。表の木戸しか出入りは出来ず。火事が起きても、たった一つのこの入り口からしか逃げられず。これが「京都のうなぎの寝床」の典型版と知ったのは後日。


尚、この近くの五番町(千本中立売下る西入る)では、昭和32年(1958)3月迄遊郭が開いていましたから、ここに娼妓の皆さんがいたのです。注)昭和32年 売春防止法

(この五番町が、水上勉原作「五番町夕霧楼」の舞台。映画では1963年佐久間好子主演。後、1980年松阪慶子が演じる。以後、TVドラマでも放送)




《学生の街・京都とは》

昭和32年春以降、娼妓に代わって、ここに入居したのが、京都の学生達なのです。

京都は、学生の街と言われていましたね。京都の人が、学生を歓迎し重宝した理由の一つは、空いた小部屋や間借りに、これら学生が入居してくれたからです。


つまり、明治時代以降、洛中の花街は移転や順次規模縮小するのと並行し、それに従事する女性が減少。
去った後を、大学生さんが埋めてきた歴史の所産なのですね。


大学生を丁重に扱わないと、他の家に変わられたり評判が悪くなったりし、入居者がいなくなります。
これは、消費でも同じ事が言えるのです。大学生は娼妓に代わる貴重な消費者でした。

畢竟、「花の街・京都」から、学生をチヤホヤした「学生の街・京都」となりました。




《今もダニと闘うお茶屋さん》

他方、うなぎの寝床には、陽が入らないし風も届かず。
しかも夏の京都そのものが、盆地特有の高温・多湿・無風。

もしも、北海道から夏の京都のうなぎの寝床に移り住んだら、仮死状態になったでしょうね。
当時は、エアコン無しが普通でしたから。

更に、白生地や反物の木造倉庫が多かったですからね。
その隣の家でしたら最悪。ダニが移動してくるのです。



実は、京都とは、ダニとの闘いの町なのです。
今でも、古い建屋の置屋さんや御茶屋さんは、毎日、陰ながらダニと闘っているのです。

私も、下京区のうなぎの寝床の奥に1年間住んだ事があります。
京都の人には、ダニが遠慮するのでしょうか。
あるいは噛まれても赤くならない体質の人が多いのでしょうか。

同じ所に寝て、私などは、腫れあがりましたが、京都の友人は、傷痕等皆無でしたからね。




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