阪神淡路大震災での或る決断

いよいよ13年前の阪神淡路大地震の1月17日が明後日となりました。
改めて、お亡くなりになりました6,434名の皆様に哀悼の意を表します。



さて、忘れられない事の一つに、この大地震の時に、決断したある支店長の行動です。
京都に本社があり病院給食を受託している企業の近畿支店の当時の支店長の実話です。

地震は1995年(平成7年)1月17日(火曜日)の午前5時46分に発生しました。
彼は、事故の重大さを直感。社長と連絡をとろうとしましたが、社長は出張中。
だが、彼は社長の宿泊ホテルを把握していませんでした。


彼は決断するのです。夜も明けきらないうちに、自宅から電話をし、ヘリコプターをチャーターしました。チャーター料一日80万円を5日間。計400万円。独断と偏見で。


他方、社員には早朝出勤を指示。受託給食をしている京都市内の全病院の厨房を使って別途ご飯を炊かせ弁当を作らせました。町の弁当屋では、病院の患者用の食事は作れないのです。


何しろ、病院食は、ご飯の種類だけでも幾種類もあります。
おかゆだけでも、全がゆ・7分がゆ・5分がゆ・3分がゆですからね。


おかずも、塩分調整のいるものや、身のほぐしの程度が多様ですからね。
食べてはいけないも等、患者毎にまさに多種多様。


その指示を各病院毎の給食の全現場責任者に午前8時過ぎまでで終えてしまったのですからね。
電話が通じなくなるのは、8時半頃から。


それを神戸市内のグランドがある病院へヘリコプターのピストン往復で運んだのです。
そこからは人力で、各病院や老人施設に配送しました。


それにしても、いち早く、ヘリコプターを押さえた判断力と決断力は、凄いものですね。
午前八時頃にチャーターしようと電話をした会社もあったようですが、報道関係が既に残る何機かをチャーターしており出来なかったとの事です。

日頃の危機管理と決断力が人並みどころではありませんね。


彼の逸話は、これにとどまりません。彼が若き時、北関東支店の課長時代、大雨で洪水。
彼は、山の中の川べりに建つ病院が水に浸かっていると直感。

4tトラックに、病院用シーツや毛布を山積みし、現場に一人で向かうのです。
途中、通行止め。彼は止める消防や警察を振り切って直進。タイヤの高さまでの濁流を走行。

現場病院では、やはり一階に濁流。病室とリネン庫がやられていたとの事でした。


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この支店長の話しとは違って、全く信じられない行動をしたのが、うちの㈱ウズマサの神戸営業所木津所長(仮称)。

会社としてあてがった神戸市内の木造家屋に若い社員が寝泊りしていました。
処が、この大地震で彼が寝ていた1階がペチャンコになりました。

駆けつけた他の社員が崩れた柱などをどかすには無理でした。
何しろ、2階がそのままの形で1階を押しつぶしていたのですから。


その若い社員は恐らく即死だったでしょう。
その両親に連絡が付き、両親の現場到着が夕方の見込み。

その所長は、そこにいた数人の部下全員に対し、所長のマンションの部屋片付けに連れて行くのです。
マンションには奥さんがいるのですよ。せめて、両親が来るまで誰かここに居てあげたい!との要望を一蹴して。


話しは、ここで終わりません。その社員の通夜が、大阪府高槻市で行われました。
所長は、部下全員に対して、通夜や葬儀に行く事を禁止しましたね。
出席した部下社員達全員は、首を覚悟で参列したとの事です。


それから一か月半後、この所長は、大阪支店の支店長に昇進したのですから、うちは何という会社なのでしょうかね。

非常事態発生の時に、どう決断し、いかなる行動をとったか、人も企業も、その真価を問われますね。


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(参考)私の場合