大火での教訓二つ

私の履歴書・36〈中学時代ー9〉
《母の実家の火事》

私が中学一年になる1年前の1957年(昭和32年)5月10日仙北郡北楢岡(きたならおか)(現、大曲市→大仙市)の大火で317棟が全焼。(ここは通称「新町」と言われ、秋田の民謡「飴売節」の中に出て来る)

ここに母の実家がありました。無論、母の実家の母屋も焼けたのですが、焼けなかったのは母の実家の蔵と、もう一軒の蔵の二箇所だけだったと記憶しています。

ここの蔵の家具や調度品は、蔵の土壁から15cm程 離して置いてありました。
幼少の頃、かくれんぼ等でこの狭い隙間に入って遊んだものです。

離している理由は、火事の場合、土壁が隣の火事の熱で真っ赤になり、室内の壁に家具が密着していたら、その熱で家具が燃えてしまうからだそうです。其のおかげで、蔵が焼けずに残ったのです。

昨今のマンション住まいの人にとって、参考になる話しですね。


大火のあった時に、母は、実家にお札を腹巻に巻いて見舞いに行きました。
帰宅してから、母は私の一つ下の実家の従姉妹に、手紙を書くように言いました。

そこで私は、母に言われてから何ヵ月後にようやく従姉妹に手紙を書いたのです。
そこで私が書ける文章の内容は、「大変でしたね。頑張って下さい!」でしたね。

明けて、一年後の中学1年の初夏、本荘に用事があって実家の伯父さんが我家に一泊しました。
その夜に、伯父さんの放った言葉は、今も、鮮明に思い出す事が出来ます。


「同情するのだったら、その人の一生に責任を持つ覚悟でなければならない。単なる同情は、その人を不幸にする。同情されることにより、自分は何と不幸な運命と思ってしまうから。」


世の中を知らない中学1年の私は、直接、そう言われて、ショックでした。
私の書いた従姉妹宛の手紙を読んだようです。当時は、冷酷な伯父さんと思っていました。


でも、社会人になって、人との付き合いや部下育成の時に、この時の伯父さんの言葉が鮮明に思い出されるのでした。だから、結構、厳しい上司でした。(この件は、後日、機会がありましたら)

尚、この一つ年下の従姉妹は、その後、私が中学1年の間、秋田放送で毎週木曜日の夕方、ソロで歌っておしゃべりしていましたね。時々、ラジオで聞いていました。元気でほっとした記憶があります。



《前回、真由子嬢の「将来、由利原を開墾したい」との発表に関しての追記》

この時は、気が付かなかったですね。実は、私の父方の祖母の祖先は、本荘藩(六郷藩)の武士でした。が、幕末、西目地区の潟を開墾しましたからね。

二十年前頃の話しですが、父方の10歳年上の従姉妹が、偶々仕事でこの地区のお祭りに行った時、子孫が来たと言う事で、宴席の最上席に座らせられたと言っていましたからね。

祖母の旧姓は「渕名」。当時、ひょっとして、真由子嬢は、ご両親からその話を聞いていたのかもしれません。




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