ドクトル・チエコを知る

私の履歴書・32〈中学時代ー5〉
1958年(昭和33年・中学1年)初夏

《眼科医直行の温泉プール》
この頃、本荘(鶴舞)公園の下の鶴舞小学校の校庭の隣から温泉が出ました。
当時の家の直ぐ近所でしたので、温泉プールが出来たら、春夏秋冬、毎日のように泳ぎに行きました。

このお陰で、しょっちゅう眼科医通い。当時はシャワーが未だ未設備。湧き出る湯量は、そんなに多くはなかったのに多くの人。しかも、夜中にバーのお姉さん達も店を終えてから泳ぎに来ていましたからね。

プールが、きれいになる事はなかったのです。
ここで泳いだら、私のみならず、大抵の人が眼科医行きでした。
乱視が入ったのは、この頃からですし、このプールが原因だったのでしょう。


《私のイチゴ畑の場合》
同級生の利君の家は、中学校から1km西の坂の途中(三軒町)にありました。
彼とは、新山公園でも学校から離れた山の中で、かすみ網を張って野鳥を捕獲しようとしました。
尚、かすみ網は、私が通販誌「模型とラジオ」で一枚100円のものを二枚購入していました。

網一枚が、横二間・縦一間。これを二枚。鳥かごの小鳥をおとりにして網をたらし、木陰に隠れて網に入るのを待つのですが、ちっとも鳥が来ません。仕方が無いので、雀の群れが集まる木に網を張りました。
間も無く、一気に二十羽程、網に入りました。喜び勇んで近づきますと、全部逃げてしまうのです。

あきらめて、退屈なので、初めてイチゴ泥棒をしましたね。
「イチゴ泥棒は、そもそも、学校の近くでするから捕まるのだ!捕まった生徒会役員の連中は何と馬鹿な奴等だ!」
と二人で言いながらです。

何日かして、二人で二度目のイチゴ泥棒に夢中になっていると、遂に、見つかりました。
すると、利君は、落ち着き払って私の事を農家の人に言うのです。

利君「水無瀬冬樹君(私)の父親は、元、石脇の○○だよ」。
農家の人「あっ、そう。ここは未だ早いから、向こうの畑で採りなさい」。

びっくりしました。驚きました。
学校に通報されて、担任からは、しっぽりと怒られ、しかも、朝礼で私と利君の名前を言われるのを覚悟しましたからね。

成る程、小さい頃、酒に酔った親父のダボラ話として聞いていた事。
つまり、親父の生まれ故郷のここ石脇三軒町の人は、幼少の時の親父を「○○のぼんぼん」と呼んでいたのですからね。

捕まって、おとがめ無し。しかも、熟している方の畑で採りなさいと言われると、何となく、やり難くなりましたし、親父の幼少を知っている人達ですからね。

万が一、親父にばれたら、当然、頭はこぶだらけでしょう。
それから二度と、イチゴ泥棒はしませんでした。


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《ドクトル・チエコ》
同じく同級生の大町の旅館の息子の高橋君(仮称)が「面白いものを見つけたから遊びに来て」と言うので、学校帰りに寄りました。そこは商人宿で、誰が家の人か泊り客か見分けが付かない程、フランクでしたね。

彼に連れて行かれたのが、旅館の裏の二階建ての物置。
その二階には、彼の姉が購入し捨てた雑誌が散乱していました。

月刊誌「平凡」や月刊誌「明星」などです。
最初は、この本誌の写真等を見ていたのですが、本誌の半分程の大きさの付録の冊子に目が行きました。

それは、ドクトル・チエコの「身の下相談集」でした。
この付録は何冊かありました。

驚きましたね。
当時、『性』に関して全く無知な私にとって、これが初めての『性』との遭遇でしたね。

《この時の記憶にある何度も登場した似たような相談内容例》

「私(相談者の女性)は、女友達数人と海水浴に行き、男性グループと知り合いました。
その中の一人の彼は、私の手を引いて離れた岩陰まで走って行き、そこで私は犯されてしまったのです。
どうしたらいいのでしょうか。」


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写真左は、温泉が湧き出た当時。 右の写真は、その後の、雪の中での温泉プール。
尚、この写真は、平成13年出来た本荘公園にある「本丸の館」で公開されているものです。


(参考)『ボスザウルスの隠れ家 Bosszaurus』の記事より一部抜粋
平凡は戦後にスタートした月刊雑誌で平凡出版(現マガジンハウス)から出されており
1955年には170万部を突破するが 1987年に休刊

明星は 平凡の後を追うように 集英社が発行し 徐々に部数を伸ばし100万部を突破
現在はMyojoと名前を変えて ジャニーズ事務所のタレントを中心にした雑誌になっている