上野で初めて乞食を見た時

私の履歴書
〈東京見物〉小学校四年(1955年:S30年)と五年の夏休みに、東京に二度、家族で遊びに行きました。
先ずは、競争に勝たなければならないのです。当時、座席指定や特急は無かったですからね。

一旦、羽後本荘駅から秋田駅まで40Kmバックし、秋田発の上野行き夜行急行に乗るのです。
そうしなければ、座席を確保出来ないからです。

秋田駅では、発車数時間前から、駅のホームに並ぶのですが、それでも何番目かです。
ドアが開くと兄弟三人の内、次兄と私がドアが開くと同時に飛び込み、中から窓を開けます。

開いた窓から、残る長兄が乗り込みます。戦後のフイルムで良く見かける光景そのまんま。
これでも、座席六つを確保出来ない時があるのです。その時は、通路に新聞紙を敷いて寝ます。
この方が下手に四人掛けの座席にいるよりも楽でしたね。何しろ、座席は狭かったですから。

これと同じ座席形式が、十年程前まで、東海道線でも走っていましたね。ボデーの色は、褐色、褐色と緑で、座席が四人掛けです。

真夜中に、何処かの駅に停まる都度、親父のお決まりは、プラットホームの立ち食いソバです。
これが何度かで、一眠りしたと思ったら早朝の上野駅。ここで乞食を初めて見ましたね。びっくり!

イメージ 1この二度の東京見物で、今、思い出せるのは、この乞食と、
日劇のラインダンスだけ!

あとは、その時の写真を見ても、思い出せません。

半分、眠っていたのでしょうね。

無論、帰りの上野駅でも、発車の数時間前から並びました。


そうそう、もう一つ思い出せる事がありました。上野駅に早朝下車したら、先ずは、プラットホームにある洗面所で顔洗いです。蒸気機関車での夏の夜でしたから、窓は開けているのです。

洗面所の鏡に写る自分の顔は、蒸気機関車の煙で、真っ黒な天花粉を散りばめたものでした。
それに、寝不足でしたから、真夏なのに、上野駅では寒い!寒い!

(写真は、中の列、左のバスガイドさんの隣が次兄・私・姉・母。後列、真ん中が父、右端が長兄)