野山の果実・渋柿でいちじく浣腸

私の履歴書・009
(いちじく浣腸)
就学前の下川大内村滝時代と直根(ひたね)村時代は、野山や農家の軒先が、私のおやつの在り処。
思い出す順ですと。

『赤いグミ』今のお菓子のグミは、野のグミとよく似ていますね。ゴムを噛む感じ。
キイチゴ・野いちご』見つけるとしゃがんで夢中になって両手でつまみましたね。
ナンテン』大きいのは全く美味しくなかった!小さい方が一寸甘味がありました。
『イチジク』農家の軒先や畑の端。恐る恐る手を伸ばしました。
ギンナン』ご存知銀杏の実。土の中に埋めて実が腐るのを待つのですが臭いしかぶれたりでーー
『やまぶどう』『あけび』競争が激しく宝物。村の子供達は皆、秋になると探しに山へ入りました。
その他には『くり』『山なし』『うめ』『すもも』。
すももは種ごとごくんと飲んでしまい、トイレで出てくるまでハラハラ!

尚、紫色のこんぺいとうの様な実。これは桑の実でした。

しかし、何と言っても、一番美味しいのは、『渋柿』!

ぐじゅぐじゅに熟した渋柿は、甘い!甘い!。『ごま柿』は美味しくないですからね。
秋は、毎日、口の周りには、赤い実が付いたままでした。(黄色の時はかぼちゃ)

そして、お決まりコースは、『いちじく浣腸』。

渋柿の熟したのは早目に採らないと、他の子やカラスに採られます。
渋味が未だ有っても、もいで食べなきゃ!。こういう場合は、きっちり運呼づまり。

四つんばいになって、母に裸の尻を向けると、母は、私のお尻の穴に、肌色のいちじくの形の浣腸をプシュ!。
これ、特に4歳5歳の滝時代、私の毎年の秋の行事でした。

尚、も一つお決まりコースは、山に入る都度、うるしにかぶれて、顔が腫れあがりました。



イメージ 1

〈体育館の屋根が滑り台〉
何しろ、鳥海山の麓ですから雪はどんどん降りましたね。小学校の体育館の屋根と滑り落ちた雪とが繋がってしまうのです。
つまり、体育館のトタン屋根のてっぺんから地面までが、長い雪の滑り台になるのです。

スキーの滑れるなだらかな長い坂は、近所に無かったのですからね。畢竟、このなが~いスロープは楽しかったですね。一番楽しかったこの遊びも、どんどん人が増えて、禁止されました。

他方、ドカ雪の日、母の実家からの帰りで、バスが動かない。矢島に一泊。
翌朝、矢島駅から15km弱の雪道を徒歩。同じ村の人達と吹雪の峠越え。

前が全く見えないし、息をつけないほど。横殴りの雪。ただひたすらひたすらに母の後ろを歩きました。

峠を下りましたら雪が上から降りました。


〈森永ヒソミルク〉
就学前のこの頃、家では、当時の私の頭程の大きささの粉ミルク缶があり、毎日、お湯に溶かして飲んでいました。森永粉ミルクなのです。

後日、森永ヒソ粉ミルク事件を聞いたとき、私と姉の肌の色が、他の兄弟二人と違い黒いのは、ひょっとして森永粉ミルクのヒソのせいでは? と思った時期もありました。

残念にも、母の話によると、姑は本荘藩(六郷藩)の家老の娘ですが、これが真っ黒だったそうです。
天然地黒の隔世遺伝。姉も私も、風呂でごしごし何度こすっても白くならないのは当然でした。


( 写真は、昨年のお盆に横手・湯沢方面から眺めた鳥海山
    尚、直根(ひたね)村中直根からは、鳥海山は見えません。麓ですからね。)

                              続く(次回から小学生編です)



イメージ 2
1950年8月の家族写真。中央が私(5歳)。
秋田市・木内(きのうち)百貨店内写真館にて。