五歳二回目の初恋

私の履歴書・008
昭和25年春(1950)滝から、鳥海山の東側の麓、直根(ひたね)村に転居。現、由利高原鉄道羽後本荘駅⇔羽後矢島)の終点矢島駅から十五km南東の奥地へ。私は、ここで五歳と六歳を過ごしました。

〈次なる恋〉
当時、幼稚園なるものは、鳥海山の山深き麓の村では無いのです。私は、小学校に上がる前だから毎日が暇。住居が集落の中ではなかったですから、遊ぶ相手はいないのです。

イメージ 1思い余って母が村の同い年の男の子と何度か遊ばせようとしましたが、幼すぎて遊びになりません。
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だから一人遊び。場所はここも近くの小学校校庭なのです。
ひたすら休み時間に一年生と遊ぶ為に。
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休み時間が終わると一年生の教室を窓から覗いていました。そして私は、一年生の優子さんを見初めたのです。背は小さいですが、いつもキラリ!と光っていましたね。
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私は、事ある度に優子さんの事を母に聞きました。母は「優子の家は貧しく上の学校に行けない」とか「優子は賢い」とか。母は、優子さんに「一生懸命勉強し資格を取れ!」と何度も言っていました。

母に言わせると、農作業を手伝いながらも、寸暇を惜しんで勉強する少女版二宮金次郎でしたね。この頃には、例の若き女先生の事はすっかり忘れてしまい、「めんこい優子さんを何とかしてあげねば!」との気持ちで一杯。

 
(後日談)それから45年後の1995年、私が帰郷中に優子さんが我が家にやって来ました。 私は、1964年地元高校卒業と同時に京都へ。その後、優子さんが度々、母に会いに田舎の我が家に来ていた事は、知らなかったのです。

当時、優子さんは、公立病院の看護部長(婦長?)をしていたそうです。私の記憶にある、あの小さくて、弱々しくて、賢そうな可愛い女の子の延長線上ではありませんでした。

大きな!大きな!お尻の、頼りがいのある凛々しい小母さんと化していましたよ。

          (写真は左から、長兄・私五歳・姉・次兄)

                                     続く 


(追記)2013.07.30 メモ

① 直根村での住居は、8畳間が二つ、それに真ん中に囲炉裏のある30畳程の板の間でした。
度々酒飲みの来客があり、この囲炉裏を囲んでドブロクを飲み、拍子手を打ちながら皆で歌うのです。


② 冬の貰い物は、大半が鏡餅
それを天井に吊るして乾燥させるのです。

順次、餅を降ろして食べるのですが、何しろ貰う量が半端じゃない。
餅には、段々カビが生えていきます。

餅のカビは害にはならず、寧ろ、青カビは、ペニシリンの元ということで、
何のためらいもなく、焼いて食べました。




イメージ 2

板の間から続く廊下があり、その廊下の角には非常出入り口がありました。
そこからは、十五夜お月さんがよく見えるので、母は、すすきを立て、おはぎをお供えしました。

父は酔って板の間で眠っていたので、母と我ら子供は、消灯し、月が上がるのを待ちました。
山深き山村の然も集落から離れた地ですから、数センチ離れたお互いの顔も見えない程の当に真っ暗。

やがて十五夜お月さんは、山の端から顔を出しましたね。


④ニャンコのチャペ

よくねずみを獲ってきて、私たちに見せました。
私たちは、ちゃぺを大いに褒め称えます。

そしたら、咥えたねずみを放して逃がすのです。
それを追いかけ、再度咥えて、また褒められて、終いにはねずみを食べてしまいます。

他のにゃんこと違うところは、出産の時は、必ず誰かに観て欲しいのです。
誰かが見守るまで、ニャーニャー鳴き続けます。

誰かが見守ると出産を始めます。
出産が終わったら、胎盤を食べてしまうところは、他のニャンコと同じですね。