「相田みつを」さんから貰った色紙

私の履歴書・007
〈父の短歌〉
この頃、毎年正月、我家には嫌な行事がありました。正月に父が創った短歌を聞かされることです。
父は、大酒を飲んでべろんべろんになりながら詠むものですから、私達家族はいやでいやで堪りません。

家族の皆が、まともに聞いていないのを知りながら、父は、朗々と詠むのですから----。
それを歌誌に投稿。掲載されたらされたで、大酒を飲んで、私達はまた同じ短歌を聞かされるのですからね。

イメージ 1


父が、投稿した雑誌は歌誌「一路」。実は、この一路の誌上で、父は、相田みつをさんと出会ったのです。
二人が同時に掲載されたのが1942・1943年(私が生まれる前)で、当時、相田みつをさんが18~19歳、父が32~33歳の時と思います。

と言いますのは、5年前のお盆に帰郷し、父母の遺品を片付けていた時、父の本棚に50冊程の歌誌「一路」があり、それを丹念に見たからです。

相田みつをさんの短歌は、その頃と、戦後、私が3~4歳(1948・1949)の頃の歌誌「一路」に父の短歌と同様、掲載されていました。その頃、母の話しでは相田みつをさんと父とは手紙のやりとりをしていたようです。

今から30年前の1977年、相田みつをさんが秋田の田舎の我家に来たそうです。みつをさんが53歳の時です。

「ようやく食べれるようになりました」と言って、色紙二枚を置いて行きました。
その内の一枚が写真の「ただいるだけで」と、もう一枚が「悩みはつきないね 生きているんだもの」です。

私が、東京単身赴任時代の1989年、相田みつをさんのご長男の相田一人さんが、銀座東芝ビルに「相田みつを美術館」(1988-1996)を開いてから間も無く、館長でもある相田一人さんと数度お会いして色々と思い出話等を聞かせていただきました。


尚、残念にも4年前、田舎におせっかいな人がいたらしく、この歌誌「一路」全冊と、郷土歴史家が我家の祖先を一面にわたり書いた四十年前の地元新聞(秋田魁)、それに、江戸初期から書かれている市役所発行の戸籍謄本共に、ゴミとして捨ててしまったそうです。


                    話が、大幅にそれてしまったようですね。

                                 続く