三途の川

私の履歴書
〈三途の川〉
四歳の夏、母の父が危篤との電報が来ました。
母は、取りも直さず私の手を引いて母の実家・仙北郡神岡村に向かいました。

先ずは自宅から4Km歩いて国道に出たのですが、駅行きバスは何時間後。
母は、ヒッチハイクもどきで大型トラックを停めたのですが、乗るスペースは荷台にしかないのです。

荷台はわらで山積み満載。
しかも、空いている場所は、運転席の後ろの荷台の釜の焚き口のみ。
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当時はガソリン車ではなく木炭車。
この釜は、ドラム缶程の大きさで常に薪を焚いていますから熱いのなんの。

更に、この日は、特別の炎天下で暑い暑い。
焼き芋屋の釜の横に乗ったようなもの。

途中、分かれ道で下車し、松本須山バス停(当時、下川大内村松本)で暫し待ってバスに乗車し岩谷駅まで行きました。無論バスも木炭車です。
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岩谷駅から羽越線秋田駅へ。そこから奥羽本線神宮寺駅に到着。臨終には辛うじて間にあいました。

亡くなってから間も無く、裏の雄物川の近くで遺体を焼くのです。

キャンプファイヤーのように木が四角に高く組まれた上に棺桶を載せ点火。
途中、遺体が突然蓋を開けてガバッと起き上がると言うので、傍から母屋に連れ戻されました。

葬儀が済んだら、遺骨を墓に埋葬に行くのです。
墓は、雄物川の向こう側にあるのですが、当時、橋は無く、渡し舟。対岸から何十メートルもロープを張っており、船頭がそのロープを手繰ると小船はヨヨと進むのです。

後日、この時の光景を思い出す都度、あれが三途の川かとだぶってしまうのでした。

参考)当時の汽車は、石炭車。汽車の窓から顔を出していると、飛んでくる煙と石炭の粉末で、顔が真っ黒くなったものです。
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それに、連結している客車の数が少なく、混むと、貨車に乗ったものです。
                   (写真、左がワム 右がトム)

母の実家にて、母方一族。中央が母の父母。母の父が亡くなる2年ほど前かも。
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私は、その間の真後ろに立つ日焼けした背の低い悪がき。

(追記)
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画像は終戦直後の買い出し列車の状況ですが、昭和20年代半ばの夏休みの時期の羽越線の状況もこのようなものでした。
私たち家族は、客車ではなく、連結している貨物車両に乗りました。

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(画像借入先)
木炭トラック トヨタ博物館
木炭バス 広電
蒸気機関車
http://rail.hobidas.com/kokutetsu2/archives/0010-14/0090-8/
ワム画像
http://www5f.biglobe.ne.jp/~y_ich/FC/CAR/VAN/WA/WAMU80000.htm
トム画像
http://satoyama.in/auto/sharyo/auto861.html
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