『百人一首』を足蹴にする企業
昨年06年1月27日、嵐山に「百人一首殿堂」として「時雨殿」がオープンしてから1年。
だが、残念にも、嵐山のこの絶好の場所に、多額を投入しながらも、感動は皆無。
単なる客寄せパンダ。修学旅行相手に過ぎない。
後鳥羽院を慕う藤原定家の想いなどは、微塵も無いのである。
これを建立したのが(財)小倉百人一首文化財団。理事長が任●堂の山●相談役。
賭博のおいちょかぶ札や花札の感覚が、根底にある。
そもそも、過去、任●堂とは、博打(ばくち)のかぶ札と花札で全盛を謳歌した時代があった。
その頃の百人一首の札は、片手間だったから、当然と言えば当然であろう。
今やゲームで、しこたまもうけて札束であふれているから、金さえ出せば何をやっても社会的貢献?日本文化への貢献?と思っているようだ。
それにしても、例え、液晶にしても、和歌の札を足で踏ませる感覚が理解不能である。
和歌は、単に、側面に屏風を模して並べてあるだけ。
山●氏は、財界でどのようなポジションであろうと、その昔、色々な想いで詠んだ歌と詠み人を冒瀆(ぼうとく)して良いのであろうか。
わが世を謳歌(おうか)するゆえに、古人の和歌などは、足蹴が当然の扱いと言いたいのであろうか!
せめて、北野天満宮等で、和歌の掲げられている態様を見習うべきだと私は思う。
だが、残念にも、嵐山のこの絶好の場所に、多額を投入しながらも、感動は皆無。
単なる客寄せパンダ。修学旅行相手に過ぎない。
後鳥羽院を慕う藤原定家の想いなどは、微塵も無いのである。
これを建立したのが(財)小倉百人一首文化財団。理事長が任●堂の山●相談役。
賭博のおいちょかぶ札や花札の感覚が、根底にある。
そもそも、過去、任●堂とは、博打(ばくち)のかぶ札と花札で全盛を謳歌した時代があった。
その頃の百人一首の札は、片手間だったから、当然と言えば当然であろう。
今やゲームで、しこたまもうけて札束であふれているから、金さえ出せば何をやっても社会的貢献?日本文化への貢献?と思っているようだ。
それにしても、例え、液晶にしても、和歌の札を足で踏ませる感覚が理解不能である。
和歌は、単に、側面に屏風を模して並べてあるだけ。
山●氏は、財界でどのようなポジションであろうと、その昔、色々な想いで詠んだ歌と詠み人を冒瀆(ぼうとく)して良いのであろうか。
わが世を謳歌(おうか)するゆえに、古人の和歌などは、足蹴が当然の扱いと言いたいのであろうか!
せめて、北野天満宮等で、和歌の掲げられている態様を見習うべきだと私は思う。