恋人を待つ苦しさ『待宵小侍従の碑』

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阪急水無瀬駅から真西へ1km行った名神高速道路の土手に待宵小侍従の碑(顕彰碑)と墓があります。

待宵小侍従は、平安時代、恋人を待ちわびる胸の苦しみを詠んだ歌で有名です。


「待つ宵の 更け行く鐘の声聞けば 帰る朝(あした)の鳥はものかは」


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あまのさんの(「辛酉夜話」掲載)長年の研究調査によりますと下記の様に書かれております。

彼女は『平家物語』5巻の「月見」に登場します。

ある時、太皇太后多子より、「男の訪れを待つ宵と、翌朝男の帰る後朝(きぬぎぬ)の別れと何れが哀れが勝るか」との仰せがあり小侍従は即座に、

 「待つ宵の更け行く鐘の声聞けば帰る朝(あした)の鳥はものかは」

とお応え申し上げ、其の和歌の情趣と即詠の才は小侍従の名声を高め、「待宵の小侍従」と呼ばれるようになった」、と言われております。

その勅撰集入集歌は「千載和歌集」以後五十四首におよび、この時代を代表する歌人の一人でありました。。

歌人藤原定家は、正治二年十一月八日の内大臣源通親邸の歌合に、小侍従と合わされ、日記「明月記」に以下のように記しています。

「今夜、小侍従と合せ、二番勝つ。存外の面目なり」。
時に小侍従八十才、定家三十八才

尚、彼女は、平安末期の後白河院院政期から、鎌倉時代後鳥羽院院政初期の頃まで、歌人として活躍し、二条天皇太皇太后多子・高倉天皇の順にお仕えしました。


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この碑は、慶安3年(1650)高槻城主 永井直清が建てたものです。


またこの歌にちなんで、北の天王山中腹の宝積寺にある室町時代鋳造の鐘は 「待宵の鐘」と呼ばれています。

ここからは、水無瀬や桂川宇治川・木津川の三川合流地、岩清水八幡宮が見下ろせ、左手には遠く霞んで宇治や京都の東山、右手には奈良の生駒山が望めます。

彼女は、この寺の夕の鐘に、寂しい想いをしていたのでしょうね。


尚、参考まで、この寺は、山崎の戦いの時の羽柴秀吉の本陣でした。
夏目漱石漱石日記」では、夏目漱石も、ここを訪問しています。
藤原定家「明月記」でも、定家がここを訪問しています。
打ち出の小槌・一寸法師の物語で登場するお寺で、打ちでの小槌があります。


(この碑は、トッパンフォームズ大阪工場の南西角のはす向かいの土手にあります)


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『三川の合流大洪水の地・水無瀬」 2012/7/24(火)
 http://blogs.yahoo.co.jp/minaseyori/61399688.html

水無瀬川に形づくられた自然や、そこからの景観は多くの歌に詠
まれ、特に水無瀬川は歌枕にもなっている。

事にいでていはぬ許ぞみなせ川
したにかよいて恋しき物を とものり【古今集

人心何を頼みて水無瀬川
せぜのふるぐひ朽ち果てぬらむ 藤原基俊【千載集】

見渡せば山もと霞む水無瀬川
夕は秋となにおもひけむ 太上天皇後鳥羽上皇)【新古今集】