孫に伝えるノートの作り方
今度、孫達が来たら、是非、実践させたいことがあります。
それは、
東大生の「ノートのとり方」の記事を読んで、あれっ?と思いました。
それは娘が高校時代、日本史の成績がも一つということなので、私が社内外の会議や交渉で作成する私のノートのとり方を教えたのですが、基本的にそれとほぼ同じなのです。
私の場合は、会議などの当日、左のページの左から3~4cmの位置に上から縦線を引き、その欄の最上段には日時と会議の名前をのみを記入し、右の欄には、上から➀出席者全員の企業名・氏名、②交渉事項略解、➂議事進行に伴っての出席者の発言の要点、④詳細討議事項、⑤各自の賛否、⑥決定事項、或いは次回の課題を箇条書きで記入したのです。
更に右のページには、会議などが終わってから、或いは後日、各発言の要点に対してその背景や自分の知識や認識不足の点を調べて記入し、更に、自分の感想や意見を記入し、次回に備えるというものでした。
このノートのとり方は、基本的には1976年に三菱商事本社総務部長代理から教えてもらったものを、私なりに応用し、右のページをも活用することを加えものでした。
娘に教えたのは、基本的は上記のノートの作り方を日本史のノートに応用したものですが、更にこれに
左のページの右欄最上段に、手書きで絵を描いたり写真を貼り付けること。これは、脳の引き出しに入っている画像を先ず思い出したら、その時書いた内容や、右のページに書いた自分の意見や調べた内容を引き出せるからです。
基本的には東大生の「ノートのとり方」と同じ『再現性』なのですが、異なり箇所は、私の場合はこの絵や画像を加えることで、東大生の場合は、『ノートやメモを見なくても、他の人に自分で説明できるようにするため』に、ノートをとっているということです。
私の方法でも、娘は日本史の成績がぐんと上がったとのことでしたから、ノートの余白に自分の感想や意見・調べた内容を附記することがいかに重要であるかです。
今夏、中学生と小学生の孫たちを大阪に来させ、両方をミックスさせたノートの作り方を伝授しようと思います。
東大生の「ノートのとり方」が本質的で凄すぎた
東洋経済 4/27(土) 5:30配信
ノートはある1点に焦点を当てて作られている。
それが、「再現性」。
「授業や読書などで得た情報を、後から自分で『再現』できるようにするため」
ノートやメモを見なくても、他の人に自分で説明できるようにするために、ノートをとっている。
ノートは、知識を自分の脳への「インプット」すると同時に、「アウトプット」の手段としても使う。つまり、授業や本の内容を自分1人で「再現」し、自分で後から誰かに「説明」できるようにするためのツールとして活用している。
「後から誰かに説明するタイミングが来る!」という意識の中で授業を聴いたり本を読んだりすると、格段に記憶に定着しやすく、成績も上がりやすい。
3つの「ノート・メモ」テクニック
テクニック1:『言い換える』
教師の言うことや教科書などの本の内容を、自分の中でかみ砕いて「自分の頭で考えて」まとめなおし、納得すること。これが授業の「再現性」を高めてくれる。
・ノートやメモに、「要するにどういうこと?」を書くスペースを作る
・文章の横に「一言でまとめるとどうなるか?」を自分の言葉でメモしてみる。
「一言でまとめる」というのは「自分の頭で考えて」まとめなおすという行為。
自分の頭でまとめ直し、納得すること。
これが授業の「再現性」を高めてくれる
そして、「原因と結果」までしっかりまとめる。
テクニック2:『ロジックを残す』
ロジック「どうしてそうなるのか?」「なぜそうなったのか?」を整理してノートを書く。
そして「原因と結果」のみならず、それに付帯する事項までノートに書く。
単独で暗記するよりも複数の情報をひとかたまりで覚えたほうがいい。
何かと何かの情報を→で結び、もし→で結べない情報があったらその間に入る情報を補完する。つまり、「ロジックが見えるノート・メモ」作り。
改めて言うと、
・「なぜそうなるのか?」「その結果何が起こったのか?」を「→」でつなげる
・「→」で結べない情報が出てきたら、間を補完する情報がないか調べる。
テクニック3:『とっかかりをつくる』
ノートに「無駄なこと」を書く
エピソードでも、例え話でも、何でもいいから、自分が面白いと思うことを書き残す
「これは自分が面白いと感じたことで、これを覚えておけばその授業を再現できるから」
■ノートに「自分の感情」の足跡を残そう
自分の感情や自分の意思が入った情報ほど脳に残りやすいし、自分の知識としてアウトプットしやすい。(以上で要点抜粋終り)
(私の孫説明例)
題『ママはスキーが上手』
(原因)
→ 1987年小学5年生の2月、広島から札幌翠ヶ丘小学校に転校。
→ 小学校の体育の授業でスキーがあったから。
(経過)
→ 札幌の盤渓(ばんけい)のスキー教室に通い、基本を学び、且つ、札幌在住の4年間のシーズン都度、足しげくスキー場に通った。
(結果)
→ 大学時代と社会に出てからの長野や新潟のスキー場では目立ったが、そのレベルであった。
(理由)
→ 5歳までに始めないと、本能的な動作が身に付かない。
→ 中学時代はテニスに夢中で、スキーは二の次であった。
(付帯事項)
→ 同年小学6年生の時、民間のバスケのクラブに入っていた。
→ 1988年札幌啓明中学に入学したとき、バスケのクラブに入りたいと両親に言ったら、「それなら、テニスにしなさい。」とのことで、不本意ながらテニスクラブに入った。
→ 一生懸命練習した結果、札幌市内の中学テニス大会で入賞した。