市民162名死亡は釜石市役所の責任
狂っていますね。
両者ともに左脳の暗記だけで就任したポジション。
右脳は未発育。
津波の避難場所めぐる訴訟 遺族の訴え退ける
NHK 4月21日 14時04分
(原文が長いので要点のみ記述)
処が、この防災センターは避難場所に指定されていないにも拘わらず、市の主催した計3回の避難訓練では、住民を防災センターに避難させたのである。
市の言い分は、防災センターは避難場所ではなく、避難場所は別の場所を指定していたから、防災センターに避難して死亡した遺族に対しては何ら責任は無いというもの。
✩ ✩ ✩
判決は市の言い分を認め、市に責任はないとした。
(一部抜粋)
21日の判決で、盛岡地方裁判所の小川理津子裁判長は「防災センターを使った避難訓練に多くの住民が参加したことだけで、市が津波の避難場所として許容したとは認められない。防災センターが訓練で使われたのは望ましくはなかったが、津波の避難場所と誤解させたとはいえない」と指摘しました。
また「防災の対象は津波だけでなく、市が防災センターと名付けたのは不合理とは言えない。センターが津波の避難場所でないことを積極的に周知すべき義務があったとはいえない」として、遺族の訴えをいずれも退けました。(以下省略)
✩ ✩ ✩
この小川理津子裁判長の判決内容はまともじゃないですね。
人間の脳が正常に思考できる場合は、『避難先は右折』と判断できる。
だが、不意の地震で家の中がひっくり返り恐怖に襲われて逃げ出し、余震におののきながら避難先に行こうと丁字路に差し掛かった場合はどうであろうか。
思考回路が停止し、身体が覚えていた方向へ駆ける。
✩ ✩ ✩
先日のことだが、ある建物でエレベーターを降りて玄関のガラスドアに向かって歩くと、5m程先に女性が同じく出口に向かって歩いている。
その後ろ姿は、スキニージーンズでスラリとしたモデル如き長い脚で均整のとれたスタイル。身長は170cm弱。25歳ぐらいか。
その後ろ姿に見とれながら進むと、かの女性はガラスドアを開き、横を向いたままそこで立っている。私は誰かを待っているのかと思い周囲を見渡すも誰もいない。
私は不思議に思いながら、その開いているガラスドアを通る時、彼女は「どうぞ」と言う。そうか、私のために開いたままで待っていてくれたのか。
私は「有難う」と言いながら、横を向いて彼女の顔を見ると、それはそれは予想を遥に上回る知性美と健康美に溢れていた。
いつもの私ならここで更に一言発するのだが、その衝撃で頭が回らない。然も、私の意に反して足は勝手に前に進む。
外に出ると丁字路。私の足は自然と数日前のように左折する。
「あんな素晴らしい女性がいたのか」と思いつゝ。
200m程進んでから、あっと気がついた。
今回は右折し、人と会わなければならなかったのだ。
余談だが似たようなことが25日(火曜日)の深夜に起きた。京都駅で乗り換え、4番線のホームで停車している午後11時9分発、京都線・各停・西明石行の後方の車両に乗車しようと電車沿いに歩き、開いたドアからひょいと乗車すると、どうも雰囲気が違う。
見渡すと女性ばっかり。
「そうか、ここは女性専用車両か」と私は独り言を発し出ようと歩むと、ドアの傍に座っている女性が私を見上げ、微笑みながら「そうですよ」と優しい声で言う。
それはそれはびっくりぽん。漂うオーラは、まさに明治時代の芸者 萬龍(まんりゅう)。黒髪に今風のヘアスタイル。アイボリーのスーツ。こんな深夜なのに顔に微塵の疲労感もない薄化粧で穏やかな瞳。いかにも育ちの良さとしとやかな日本的美しさに溢れている。
私は「有難う」と言い、そこで立ち止まり何かを話したいとの気持ちが一瞬よぎるのだが、ここでも足が勝手に進み、その車両から出てしまう。
もしも街中でこのような女性が向こうからやってきた場合は、「あなたは美しい」と言うのだが、それは「美しい」と感じた一瞬からすれ違うまでの数歩の時間があるから、脳回路が感覚から思考へと切り替わることが出来るからであろう。
✩ ✩ ✩
翻って、震災の時の丁字路に差し掛かった場合、脳回路の大半は一瞬ではない継続した恐怖に占められており、左か右かを選択する脳回路は作動しない。拠って、三度も左折した記憶のある足が、心が、勝手に左に走るのである。
スポーツ選手の場合が分かり易いかも。
何故に練習するのか。
答えは自明である。
身体に覚えさすためである。
野球の野手の場合、ボールが飛んできてからどうやって補珠するかを考える者は一人もいない。それは常日頃の補珠の練習、イコール、訓練で身体に染みこませたもの。いわば、本能的にまで鍛え上げた結果として無意識に手が足が動くのである。
改めて釜石市と防災担当職員の責任の有無を再検討してみよう。
結論から述べる。
職員は重大な過ちを犯した。避難訓練は、大津波が襲うことを予見していたからこそ行ったものである。そこでの防災避難訓練では三度も左折させ、一度も地区指定の高台にある寺や神社等の避難先への右折訓練を行わなかった。故に、恐怖で冷静さを欠いた市民は、三度も身体で覚えた左への間違った防災センターへと躊躇なく逃げ、津波で死亡したのである。
再々述べるが、三度の訓練の都度、万が一大津波に襲われた場合、ひょっとして市民の一部は避難先として間違った防災センターに逃げるかも知れないという予見をしていた故に、避難場所は違うとの説明を繰り返していた。
そのリスクがありながら、市は要所要所に避難場所の方向を示す矢印看板などを立てる義務が有った。然し、市はそれを怠った。
ところが小川裁判長は「防災センターが津波の避難場所でないことを積極的に周知すべき義務があったとはいえない」としている。
とするならば、市は市民の命を守る義務は無いこととなる。それでは市長をトップとする市役所は何のために存在しているのか? 給料泥棒のためか?
盛岡地裁の小川理津子裁判長の判決は政治的なもので、これは高裁で覆されるべきである。
(註1)未必の故意とは
例えば、相手をコンクリートの壁に突き飛ばし、突き飛ばした者に殺意は無くても、ひょっとしたら相手は壁に頭を打ち怪我したり死んだりするかもしれないという予見可能性がある場合を言い、相手が死んだ場合、未必の故意の殺人罪が適用される。
(お詫び)
長々とすみません。