災害時の「大和心」と「漢心」の相違


日本が大震災の時、一気に攻めるべしと企画した国がある。或は、3・11の大震災の時もあったが、今回の熊本震災でも空家狙いの組織がある。或は、3・11のように、震災対策会議と称して100人前後のメンバーを集めて自己顕示する輩も東京や大阪にいる。

「漢心(からごころ)」とは、そういう連中の本心を指す言葉。


以下は、日本の桜とやまと心を書いたものだが、そのうちの一部を掲載します。


美しいだけじゃない。「桜」が日本の象徴とされている本当の理由
2016年3月24日

桜とともに生きてきた日本人
桜は、古来から様々な名歌に詠まれ、民衆の間で愛唱されてきた。

「世中(よのなか)にたえて桜のなかりせば春のこころはのどけからまし」(在原業平、825-880年)

「世の中に桜などなければ、春は心のどかに過ごせるだろうに」という反語的な表現で、桜のことで落ち着かない心持ちを現している。
(中略)

「ねがわくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月(もちづき)のころ」

平安末期から鎌倉初期に生きた西行法師(1118ー1190年)の有名な歌である。「願わくば桜の下で春に死にたいものだ。釈迦が入滅した、旧暦2月15日の満月の頃に」という意味である。
(中略)

ラスト・サムライ』の原作者は、おそらく英語で武士道を紹介してベストセラーとなった新渡戸稲造の『Bushido』を読んでいただろう。『Bushido』の原著では、緑色の表紙にタイトルとともに、次の本居宣長の歌が朱色に刻まれているという。

「しきしまのやまとごころを人とはば朝日ににほう山ざくらばな」

そして、著者は本文の冒頭で「武士道とは、日本の象徴である桜花にまさるとも劣らないい、日本固有の華である」と述べている。この歌の「やまとごころ」、すなわち大和魂こそ、武士の精神であり、その大和魂は桜に象徴されると考えていたのである。日本の国花が桜になったのも、この宣長の歌に基づくと伝えられている。

武士道を記した古典、山本常朝の『葉隠れ』には「武士道とは死ぬことと見つけたり」という有名な一句がある。主君のためにはいつでも生命を投げ出すのが武士道であり、桜の潔く散る様こそ、その象徴だと見なされた。

「例のうるさきいつはり」
しかし宣長の歌には武士道につながるような意味があるのだろうか?

宣長は「漢心(からごころ)」を清く除いて、人間の生まれながらの真心(まごころ)こそ、人の生きる道とした。その「真心」とは何か、『玉勝間』でこう説いている。
(中略)

「例のうるさきいつはり」とは儒教の道徳論のことで、人間の素直な心を偽った中国風の「漢心」だと言うのである。

これに続けて、月花を見ては「あはれ」と愛でながら、美人には目もくれない顔をして通りすぎる「先生」なども、「いつはり」だと論断する。

この「漢心」という嘘偽りを捨て去って、人間の真心そのままに生きることこそ、日本人が古来から大切にしてきた「やまと心」だと、宣長は考えた。

「武士として、主君のためならば喜んで命を投げ出せ」などと説く声を宣長が聞いたら、それこそ人間の真心を偽る「漢心」だと言うだろう。

(中略)
この歌が時代を超えて愛唱されてきたのは、「やまと心」を説いた理屈ではなく、「朝日ににほう山ざくらばな」という情景が、人々の「やまとごころ」に直接訴えてきたからだろう。

「やまと心」と武士道

とするなら、新渡戸稲造が『Bushido』(註1)(註2)(註3)(註4)で、宣長の歌を武士道に結びつけるたは、勝手な牽強付会なのだろうか?

(註1)
武士道と大和魂を知る序 2014/11/9(日) 
大和魂』とは一言で言えば『桜花』。『大和心』や『日本の精神』と同義語。『根性』の意味ではない。

(註2)
台湾統治時代の日本の精神とは  2014/11/8(土) 
大和魂』の顕著な例として、台湾統治時代に関してのユーチューブのうちの幾つかを貼っておきます。これらの動画全体に流れるのは、『大和魂』であり『武士道』なのです。表現を変えると『日本の精神』『日本人の心』でしょうか。

(註3)
GHQが恐れた大和心 2015/8/5(水)
大和心とポーランド魂:「何時までも恩を忘れない国民である」との言葉は、阪神大震災の後に、実証された。96年夏に被災児30名がポーランドに招かれ、3週間、各地で歓待を受けた。

(註4)
イギリス人が感銘した武士道 2013/11/17(日) 
『My Lucky Life: In War, Revolution, Peace and Diplomacy 』Sir Roger Carrick and Sam Falle (1996)『私の幸運な人生:戦争、革命、平和および外交で』☆『敵兵を救助せよ!―英国兵422名を救助した駆逐艦「雷」工藤艦長』


「長生きしたい」というような人間の素直な「やまと心」からすれば、いざとなれば潔く命を散らす武士道は「例のうるさきいつはり」なのか?

新渡戸は武士道の最初の徳目として「義」を上げている。たとえば、困っている人々を見て、なんとか救いたいと願うのは、人間の自然な情だろう。

東日本大震災仙台市では35万世帯の都市ガス供給がストップしたが、その復旧のために、全国30ほどの業者から約3,000人の技術者が集まり、ガス管の損傷確認と1軒毎の開栓作業にあたった。

「お客さんのガスを止めるというのは、ガス業者として断腸の思い。同業の仲間として放っておけない」と関係者は語る。また新潟柏崎市から8時間もかけて車で駆けつけた技術者は「中越沖(地震)の際には仙台市にも助けてもらった。やっと恩返しができる」と語る。

この3,000人の人々は、人間としてのごく自然な「やまと心」で立ち上がったのである。

「義をなす勇」と「やまと心」

新渡戸稲造は「義を見てせざるは勇なきなり」と説いた。「勇」とは、「義」をなすための勇気であって、被災者を助けたいという「義」から、ガス漏れしているかもしれない危険な地にあえて赴いたのが「勇」である。

逆に「義なき勇」は、「蛮勇」「匹夫の勇」として戒められた。当時の菅直人首相は用もないのに危機の最中の第1原発を訪れるというスタンドプレーをしたが、これは「匹夫の勇」そのものである。「匹夫の勇」で死ぬことを「犬死に」という。武士道はこういう所行を厳に戒めている。

自らの人気取りのために、吉田所長以下の懸命の作業を妨害した「不義」の所行に多くの国民が怒った。これが「義憤」である。

全国から被災地に集まった約3,000人のガス技術者たちは、危険な地に行く恐れも当然あったであろう。万一の場合にはガス爆発で命を落とすかも知れない。

その恐れを乗り越えて、「お客さんのガスを止めるというのは、ガス業者として断腸の思い」として赴いた。これは「義をなす勇」である。「武士道とは死ぬことと見つけたり」とは、死を恐れずに「義をなす勇」が、良く生きる道であることを逆説的に説いている。

そして、その「義」を感じとり、「勇」を発憤させるのも、人間の持つ「やまとごころ」の働きである。「朝日ににほう山ざくらばな」を愛でるのも、被災者たちを救いたいと願うのも、素直な「やまとごころ」の自然な働きである。こう考えれば、新渡戸稲造が『Bushido』の表紙に宣長の歌を飾ったのも、牽強付会とは言えまい。

国花・桜

現代日本において、造幣局の通り抜けを埋め尽くす人々は桜を愛でる「やまとごころ」の持ち主である。在原業平が「世中にたえて桜のなかりせば春のこころはのどけからまし」と詠ったように、開花はいつか、天気はどうか、と一喜一憂する。

散り初めには、紀友則が「久かたのひかりのどけき春の日にしづ心なく花のちるらむ」と詠ったように、花の散りゆく様を惜しむ。日本人の桜を愛でる「やまと心」は千年前と変わっていない。

のどかな春の日には桜を愛でる日本人が、一朝事あれば「義のための勇」を奮い起こして立ち上がるのも、その「やまと心」のゆえである。「漢心」では、桜を愛でることも知らず、「不義」も平気で見逃す国になってしまう。

国花の桜は文武両面で、見事に我が国の国柄を象徴しているのである。

文責:伊勢雅臣