一夜だけ消えたミステリーではないミステリー


『突然世界的ミステリーの女王が失踪』の記事と偶然出会いましたが、日本にも一夜消えたミステリーでないミステリーがあったのを思い出しましたので、そのさわりだけ記載しました。



先ずは、前段として、

突然世界的ミステリーの女王が失踪をした日~アガサ・クリスティの謎の11日間とは?  12月3日
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発表された推理小説は世界的なベストセラーとなり、名探偵ポワロミス・マープルなどを生み出した「ミステリーの女王」アガサ・クリスティ

そのアガサ・クリスティ(当時36歳)が1926年12月3日、自宅をでたまま行方不明となった。これが推理小説の歴史に名を残す大事件、すなわち” Agatha Eleven Missing(アガサ・クリスティ11日間の失踪)” である。

アガサ・クリスティ失踪事件の始まり

1926年12月3日(金)の夜、アガサ・クリスティの秘書でもあったシャーロットが、ダンスパーティーからスタイルズ荘に帰宅した。
すると夜遅くだというのにメイド達が台所でおろおろしている。聞けばアガサが21時45分頃、行き先も告げず車で出かけたのだという。

当時、アガサ・クリスティは作家として売り出し中であり、同年に発表した『アクロイド殺し』の売れ行きが非常に好調で人気作家の仲間入りをしようとしていた時期だった。

一方、夫の元空軍大佐アーチボルド・クリスティ(通称アーチー・写真)は、軍務を退いてビジネスの世界に転身したものの、思うような成果を上げられず、妻と自分を比較して自尊心を傷つけられる日々を送っていたという。

そんななか、夫は地元ゴルフクラブでナンシー・ニールという10歳年下の女性に出会い、すっかり心を奪われてしまう。夫婦は危機に陥っていた。

シャーロットはこの家の不和について熟知していた。嫌な予感がした彼女はメイド達を下がらせ、自分は寝ずにアガサの帰りを待つことに決める。だが、アガサがその晩帰ってくることはなかった。

■車が発見される

12月4日(土)朝8時過ぎ、サリー州ギルフォードの郊外の小道の脇で、フレデリック・ドアという自動車検査係の男が、斜面を滑り落ちて草むらに突っ込んでいるアガサの車を発見した。(現場の写真)

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車内には運転していた筈のアガサの姿は無く、代わりに毛皮のコート、スーツケース、そして彼女の運転免許証が残されていた。
11時頃には警察本部に事故の一報が入り、本格的な捜索が開始される。翌5日には大捜索が行われ、同日夜にはアガサの失踪を知らせる広告が新聞に大々的に掲載された。

■夫が妻を殺したのか?

「ミステリー界の女王」の失踪の報道は、やがて過熱していく。(写真・当時の新聞)
(中略)

■あっけない幕切れと謎の11日間

失踪から11日後の12月14日、あっけなく事件は解決する。
ヨークシャーのハロゲート・ハイドロパシック・ホテル(写真)から、滞在中のテレサ・ニールと名乗る女性客がアガサらしいとの一報が入ったのである。

警察とアーチー、そしてどこからか情報を嗅ぎつけた新聞記者達はホテルに急行、アーチーが新聞の陰から遠目で件の女性を視認すると、まぎれもなくアガサその人であった。(中略)

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■突然の失踪の原因とは?

その後、二人は離婚し,やがてアガサは考古学者のマックス・マローワンと再婚。
しかし、アガサは生涯この失踪事件の真実を口にしなかった。
1965年に発表した自伝においても、事件について全く触れないという徹底振りである。

この失踪に関しては、いくつかの説がある。本当に記憶喪失になっていた、という説と、義妹であり親友であった女性と一緒に夫をこらしめるために共謀したという計画説など、現在もその真相は謎に包まれたままだ。

いずれにしても真相は?



さて本文
日本にも一夜消えたミステリーではないミステリーがある

1959年(昭和34年)4月、皇太子明仁親王(現天皇)と正田美智子(現皇后)は、明日10日早朝、入内(結婚式)するという前夜、正田美智子は佐伯晋と共に二人きりで五反田の街の夜に消え、朝まで戻ってこなかった。そして朝帰り後の一言、「昨晩、どこにいたかわからない」 とノタマウ。



朝日新聞記者・在日韓国人 『佐伯晋』 だけが正田冨美に許された「正田家に入る秘密のルート」について佐伯本人が語る。

ご婚約発表前日、「美智子妃」が泣き崩れた 「この号外は取り消して頂けないか」 
元「お妃選び班記者」佐伯晋さんの取材ノートから(1)
2012/4/27 

東京タワーが完成したのは1958年。その年の11月末、皇太子さま(現天皇陛下)のご婚約相手が発表された。お相手は、「民間」の「日清製粉社長の長女、正田美智子さん」(現皇后陛下)で、世間では美智子さまの服装などをまねする「ミッチーブーム」が巻き起こった。

   当時のご婚約発表の新聞記事は、「報道協定」のためタイミングは横並びだったが、著名評論家から「ずば抜けて、あざやかであった」と評された記事があった。朝日新聞の11月27日付夕刊に載った「正田家を見つめて六カ月」だ。(注)右の画像は借用しました。

   東京スカイツリーが開業予定の2012年、この記事を書いた元朝日新聞記者で、54年前の当時「お妃選び取材班」だった佐伯晋さん(81)に2部にわたって話を聞く。

第1部は、数十年を経て見つかった当時の取材ノートをもとに、「正田家に入る秘密のルート」を築き上げる過程など、佐伯さんらの取材の悪戦苦闘ぶりに焦点をあてる。

ドレスを試着した姿を撮影
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   佐伯さんが「お妃選び取材班」担当になる話に入る前に、インタビュー第1回では、ご婚約発表(報道解禁と同日)を翌日に控えた1958年11月26日に、佐伯さんの「特ダネ写真」を目にした美智子さまが「泣き崩れた」エピソードを取り上げる。

――詳しくは追って伺いますが、佐伯さんは美智子さまのご実家、正田家とのいち早い接触やいくつもの偶然が重なった結果、ご婚約発表直前の正田家前には、中に入れない大勢の報道陣がいる中、美智子さまのご家族の信頼を得て特別に「正田家に入る秘密のルート」をもっていたそうですね。

   佐伯さんはそのルートを生かし、ご婚約発表後の朝日新聞の号外を飾ることになる美智子さまの特ダネ写真の撮影に成功しています。(以降記事本文省略)

<佐伯晋さんプロフィール>
1931年、東京生まれ。一橋大学経済学部卒。1953年、朝日新聞社入社、社会部員、社会部長などを経て、同社取締役(電波・ニューメディア担当)、専務(編集担当)を歴任した。95年の退任後も同社顧問を務め、99年に顧問を退いた。



※ 美智子妃の入内(結婚式)前夜、佐伯晋と二人で消えて朝帰りした美智子妃の理由を検討した記事。

『謎の一夜の秘密』 2017/5/5(金) 

※詳細を知りたい方は、下記の文字を色々組み合わせて検索。

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前夜
正田冨美
部落地区