B29を体当たりで撃墜した若者と、撃墜を禁止した日本のトップ


先日の8月5日午後6時15分、偶々、TBSのTV番組、『千の証言、B29体当たり撃墜の真実』を視ました。

(記事)
(ユーチューブ)

以下は、その番組の概要です。


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B29は、東京を空襲するためにサイパンから飛び立つ。


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対して日本空軍は松戸より飛び、上野原で遭遇。

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迎え撃つ日本の戦闘機は『屠龍』(とりゅう)

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学徒兵広瀬少尉は、B29の第一波への攻撃で一機を撃破するも、弾丸が切れる。然し、更に別の編隊のB29が現れる。

そこで広瀬少尉は『体当たり』と叫び急降下し、B29に激突。

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その様子を地上から見ていたのが奈良木六さん、

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双方の機体は上野原の山林に墜落。

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B29の火を噴きながらの墜落を目撃したのが降矢量男さん。

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この墜落でB29の乗務員の大半は死亡したが、パラシュートで脱出を試みた乗務員もいた。

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その兵士のパラシュートは八王子市に落ちたが、既に死亡していた。

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近くにいた当時10歳の女性の証言、

あるお母さんが、米兵の遺体の前で集まってきて罵言・暴言を吐く衆の前に立ちはだかった。

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この実話は二つの点で感動しましたね。

一つは、若者・広瀬少尉の日本国土を、日本国民を、家族を、躊躇なく守ろうとしたこと。

もう一つは、生死にかかわらず、民族の垣根を越えた人間の尊重ですね。



他方、この時、私は思いました。

1945年8月6日朝、広島で戦闘機隊に出撃命令を出していたなら・・・。
戦闘機『紫電改』の搭乗員が、出撃命令さえあればB29を撃墜出来たと証言していましたからね。

広島の上空に飛来したB29は『エノラゲイ号』。
それよりやや先行して飛んでいたのがB29『グレート・アーチスト』 
広島市南方で待機していたB29が『ネセサリー・エヴィル号』

日本軍は、原爆を積んだB29『エラノゲイ』が広島に飛んでくることを知っており、然も8月6日の朝、その『エノラゲイ』が広島に迫っていることを察知したにも拘らず、出撃準備体勢にある戦闘機隊への出撃命令は出されず。空襲警報も出されず。

天皇の命令により広島に急遽各地から食糧不足になるほどの数万人も集合させられた大日本帝国陸軍将兵広島市民が、校庭等でのラジオ体操で一斉に外にいた時、原爆は頭上で炸裂した。

例外的に生き残ったのは、事前に原爆攻撃を知らされていた第2総軍の司令官・畑俊六だけであった。

更に述べると、この日の10日前の7月26日に受け取ったポツダム宣言
7月末に受諾であったが、米国に原爆を落とすまで待てと言われ、8月、広島・長崎で原爆2発炸裂後、昭和天皇は「終戦詔書」の玉音放送を8月14日に録音、翌15日、ラジオ放送で全国に報道された・・・・・。




(※)私のブログ記事
日本の天皇中国共産党政府との関係 2015/5/25(月)