鑑真(がんじん)の日本執着の目的


日教組捏造自虐史からの脱却

『日本の歴史 本当は何がすごいのか』  (単行本) 著者: 田中 英道の紹介です。

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 この本で書かれてあることは、戦後から今も続く日教組による自虐史観を植え付けられ、その洗脳から脱していない人にとっては反発するかもしれません。

然し、平安時代中期の『源氏物語』は、世界に誇るべき宮廷文学・長編小説であることはご理解できますね。然も、作者は女性。

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この本のレビューより一部抜粋

著者田中氏は、もともとは、フランス、イタリアに留学し、それらの国の美学美術史を研究し、西洋文明のすぐれた部分に触れることができたと思い、有頂天になっていたところ、日本にも住んだこともあるイタリアの有名な人類学者フォスコ・マライーニに、次のように言われたという。
 
「日本には大変なショックを受けました。日本は私を目覚めさせたのです。西洋人のキリスト教や古典学に依拠しないで、立派な文明を持っている国が、そこにあったからです。どちらを向いても道徳的一貫性、正義感、精神的な成熟さを示す人々に出会うことができました。

そこで西洋のキリスト教が最高の宗教ではなく、相対的、歴史的な存在なのだと知らされました。どの宗教、どの哲学も、人間の存在、時間、死、悪を説明する試みの一つにすぎないのだと。

日本人は自分たちのすぐれた考え方を、西洋人に向かって書物で広く知らせているわけではないけれど、日本に行ってみると、それを実践しているのです。

そうした日本という国の存在自体が、西洋に挑戦状を突きつけているのです。日本という国は、その世界地図に占める小さな位置よりも、はるかに大きな存在なのです。」

(参考)
随筆日本―イタリア人の見た昭和の日本 単行本 – 2009/12
フォスコ マライーニ  (著)

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以下は、『親子チョコ♥(親子で、ちょこっと。。。)』さんの、『日本の歴史 本当は何がすごいのか』の一部についての説明です。



遣隋使や遣唐使よりも、はるかに多かった「遣日使」 2015/07/06
宮内庁 正倉院 URL)
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正倉院(しょうそういん)は、奈良県奈良市東大寺大仏殿の北北西に位置する、校倉造(あぜくらづくり)の大規模な高床式倉庫。

聖武天皇光明皇后ゆかりの品をはじめとする、天平時代を中心とした多数の美術工芸品を収蔵していた建物で、1997年(平成9年)に国宝に指定され、翌1998年(平成10年)に「古都奈良の文化財」の一部としてユネスコ世界遺産文化遺産)に登録されている。


戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。

私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。

知っているようで、実はキチンと知らない私たち日本の「国史」。私たち日本人の祖先が、どのようにして歴史を紡いできたのでしょう。

それでは、この書物を見ていきましょう!

日本の歴史 本当は何がすごいのか  (単行本) 著者: 田中 英道
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『 奈良東大寺大仏殿南西にある正倉院は、高床式校倉(あぜくら)造りの壮大な倉庫で、聖武天皇光明皇后の御物を納める、文化財の宝庫です。

 その御物には唐や西城、さらに遠くペルシャから渡ってきた品々が数多く含まれています。そこから正倉院を「シルクロードの東の終点」といったりします。

 この呼び名には間違いはありません。確かに多くの文物が大陸から直接に、あるいは朝鮮半島を経て日本に流れ込みました。しかし、それだけなのでしょうか。日本から向こうに渡っていったものはないのでしょうか。

日本のこの時代に対する歴史観には、日本は文化が遅れていて、中国や朝鮮に学び、向こうの文化を取り入れて発展してきたという観念が抜きがたくあります。特に戦後、この見方が浸透しました。

 その代表例は【遣隋使、遣唐使】です。
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推古天皇十五(607)年に【小野妹子】が遣隋使として派遣されました。



(参考)小野神社

小野篁神社の本殿は、小野道風神社本殿と同じ重要文化財

古事記によれば、小野一族とは、大和朝廷成立以前この地において、今の大阪府京都府奈良県三重県、愛知県、滋賀県の広い地域を統治されていた王族であり、諸国に多い小野の地名、氏族の発生地、祖神でもある。

〒520-0525 滋賀県大津市小野 JR湖西線和邇駅から南約1km徒歩10分
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ご祭神 ○天足彦国押人命 あまたらしひこくにおしひとのみこと
     ○米餅搗大使主命 しとぎつきおおかみぬしのみこと

日本の餅作りの祖と言われていることから、例祭のシトギ祭には、全国の菓子業界からの参拝を受けている。旧社格は郷社。

古代氏族である小野氏の居住区域の中心で、小野妹子の出生地と考えられている神社。南へ行くと、飛地境内に小野道風神社、和邇川を越えて北には小野天皇社がある。

尚、小野妹子の墓は、大阪府南河内郡太子町の科長神社南側の小高い丘の上にある。
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遣唐使の最初の派遣は舒明(じょめい)天皇二(630)年です。以後、途中で船が難破したりしているので数え方にもよるのですが、いずれにしろ、日本からたびたび唐に出かけて向こうの進んだ文化を学び、それによって日本は発展したという文脈で語られています。

しかし、【事実はまったく違う】のです。

 たとえば小野妹子の遣隋使のときです。こちらから行っただけでなく、随からも裴世清(はいせいせい)をはじめ位の高い役人などが32艘もの船を連ねてやってきています。いわば「遣日使」です。

唐の時代になると、さらに頻繁に日本にやってきています。その人数がまたすごいのです。

 たとえば、天智天皇八年(669)には2千余人が来ています。天智天皇十年(671)にも2千人来日、という具合です。

ほかにも、当時新羅は日本に高い関心を抱いていたようで、三十数回も来ています。

いまの中国の満州から朝鮮北部、そしてロシアの沿海州まで版図を広げた渤海という国がありましたが、ここからも33回来ているのです。

【遣隋使、遣唐使よりも遣日使のほうがはるかに多かった】のです。

では彼らは何のために日本にやってきたのでしょうか。
ほかでもありません。【日本の文化を摂取するため】に来たのです。

経済的には日本の産出する銀、絹などの高い需要がありました。八世紀後半になると日本は金も産出するようになり、日本への関心はさらに高くなりました。文化的には日本の仏教、それに聖徳太子の思想を学ぶということもありました。

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 鑑真(がんじん)が日本への渡航に5回も失敗し、6度目にようやくたどり着いた話は有名てすが、鑑真がなぜこれほど日本に執着したのか。

聖徳太子の思想をはじめ、日本に定着している仏教を高く評価していたということが根底にあるのです。

鑑真だけではありません。インド人、ヴェトナム人、ソグド人の僧も日本の仏教を学びに来ています。』


いかがでしょうか?

世界中の人々が、私たちの日本に学びに来ていたんですね♥
これが、本当にあった、歴史なんですね^^

日本って、素晴らしいですね♥