災害の記録は削除すべからず


10年弱前作成された京都精華大学の戸田裕子さんの卒論を検索しましたが、いつの間にか検索できなくなっています。(注)PDF

そこで、以前、私がその卒論の一部をコピーしていましたので、それを掲載します。『災害は忘れた頃にやって来る』とは、2011年の東日本の津波で証明されていますね。

その意味でも、昔の災害の歴史を常に掲示しておきたいものです。
尚、この論文に掲載されていた写真や地図をもコピーしたはずですが、見当たりません。見つかり次第、この記事に掲載します。



●その前に、同じく京都精華大学戸田裕子さんの『生活意識から探る水害 〜地元・ 淀川沿岸の島本町を事例に考える〜 』から一部を抜粋したものを掲載します。

第 1 章  水害との出会い 
(前文省略)
昭和 8年9月、西日本を台風1 号が襲い、大雨によって各地で河川が氾濫し、 被害が出た。 

そのなかでもとく に宇治川左岸)での浸水被 害はたいへんなものであったようだ。 
昭和 1 9 年生まれの父は当時小学校低学年で、京都市伏見区に住んでいた。 

そこで台風 1  号を経験したそうだ。 そしてもっとも被害の大きかった宇治川左岸決壊の様子を、国道  号線観月橋を渡ったところで見ていた。

「観月 橋 から大阪にむかった下流の左側がどっと切れていた」 という父の言葉どおり 、宇治川 堤防が父の住んでいた伏見区の対岸である元の巨椋池 方面(左岸) のところで切れ た。 

そのため、伏見側(右岸)では直接被害を受けずに済んだようだ。 けれども父は そのときの様子は鮮明に覚えていて、子ども心に衝撃を受けたという。 当時の様子を 写したものが写真 1 − 1 5) である。 

観月橋から先、全部、水に浸かっていた。 水、水、水。
 自分の見る範囲、とにか く 水やった。 

はっきり どうかはわからへんけど、木津川のところまで浸かってたんちゃうか。 奈良電鉄(現在の近畿日本鉄道)や国道 号線が 1 ヶ月くらい不通になっていた」 と父はいう。 この話や写真 1 − 1 から本当にすごい水害であったということが想像で きる 6) 。 

「とにかく 一瞬にして、 もうひとつ琵琶湖が出来たんやから……」 。 
父のその言葉が この水害の恐ろしさを語っているようであった。 

          ◆       ◆       ◆

※ 大洪水により、埋め立て前の巨椋池おぐらいけ)がよみがえったのでしょう。

(参照)私のブログ記事
京都に在った諏訪湖より大きな池 2007/5/11(金)
京都市伏見区に、長野県の諏訪湖(面積13.3㎡・周囲15.9km)より一回り大きな池(巨椋池おぐらいけ)があったことを知る人は、もう、少なくなったでしょうね。

イメージ 1
この地図は安土桃山時代に作成されたもの

(現在の巨椋池周辺)
イメージ 2


(古い地図を掲載している私のブログ記事)
十五夜お月さんと山崎の渡し 2012/10/30(火) 



●以下本文
戸田裕子さんの京都精華大学卒論の中の島本町に関する箇所を抜粋したもの

4)桂・宇治・木津川が淀川となる三川合流地域は、天王山と男山との間にあり非常に狭い土地なので、排水不良の原因となっていた。

このため、上流側に巨椋池と呼ばれる巨大な遊水池が形成されていた。
巨椋池おぐらいけ)の形成は縄文前期頃である。

豊臣秀吉は、巨椋池に流れ込んでいた宇治川を伏見に迂回させる土木工事を行った。その後、昭和8 年(1933 年)から昭和16年(1941 年)に干拓工事が行われ、現在は住宅地や田畑が広がっている。

島本町は7 つの村にわかれていた。明治22 年(1889 年)4 月1 日、高浜、桜井、広瀬、東大寺、山崎、尺代(しゃくだい)、大沢の7 カ村が合併して島本村

地区は大沢、尺代、山崎、東大寺、広瀬、水無瀬、青葉、桜井、江川、高浜、百ひゃ山やま、若山台の12 がある。ちなみに私が暮らすのは山崎地区である。

この町には特殊な地域性がある。大阪府なのだが、郵便番号が隣の京都府大山崎町と同じ「618」なのである。郵便番号を調べる本を見てみると、頭が「6」は京で、大阪は「5」であるのに、島本町は「6」で始まる。また、電話番号の市外局番が075 である。これも京都と同じである。

伏流水

この調査で私たち家族ははじめてハザードマップの存在を知った。
そしてよく見てみると、なんと我が家(山崎地区)の敷地の3 分の1 が「急傾斜地崩壊危険箇所」エリアに含まれていたのだ。

父は「どおりで税金が安いと思った」とぼやいていたが、本当に恐ろしい。たしかに我が家は高台にあり、大雨が降ったら水害より土砂崩れが怖いなと感じて

かつて、島本町は港町としての役割を担っていた。長岡京造営時には山崎に津ができ(山崎津)、「長岡京の外港となった」25)。そして「平安京遷都後もひき続き、物資流通の基地として栄えた」26)という。

しかし時代の流れは変わり、平安時代末期ごろには衰退した。同じ頃、山崎から淀川に橋が架かった。山崎橋という。しかし何度も洪水によって流され、ついに洪水にかてずに11 世紀には廃絶されたようだ。その後、秀吉によって再び架けられたようだが、その橋もなくなり、いま、山崎橋は跡形もない27)。

また、島本と対岸を結ぶ「渡し」も存在した。渡しは「山崎の渡し」(山崎〜橋本(八幡市)の間)、「広瀬の渡し」(広瀬〜橋本間)、「高浜の渡し」(高浜〜樟葉(枚市)間)の3 つがあった28)。

しかし、それぞれ時代とともに衰退していき、大正7 年頃に広瀬の渡しが、昭和15、6年頃に高浜の渡しが、そして昭和37年に山崎の渡しが姿を消した。

島本の「発展の基礎となったのは、淀川改修工事の遂行であった」という31)。淀川改修工事は明治29 年の淀川と琵琶湖の大洪水のあと計画され、明治31 年工、同43 年に完了したが、その後も大正から昭和にかけて補修工事が続けられた。

その工事のために島本内に採石場が設けられた。水無瀬川沿い(左岸)から淀川河川敷までレールが敷かれ、トロッコで砕石が工事現場まで運ばれていた。採石場もトロッコも昭和50 年ごろに廃止された。


また、大正12 年にウイスキーで有名なサントリーの工場が山崎の地にやってた。山崎の地がウイスキーの貯蔵にぴったりの気候条件だったからだという。水のよさもあり、この地に工場が開かれた。

さらに、島本は水の豊富な場所ということから、大日本紡績(現ユニチカ)山崎工場が大正15 年にできた。上述の人口急増の裏には、これらの工場の出現があったようだ。

しかし、大日本紡績ができたあたりはかつては沼地、一種の遊水地だったようで、地元の人からみると「よくそんな所に来たな」という感じだったようだ32 )。

それゆえ昭和10 年6 月および8 月の大雨で工場内が浸水し、約1 ヶ月休業を余儀なくされたこともあったようだ。元々の遊水地であり、水害を受けたのは自然の成り行きともいえるだろう。このようにして島本の工業化が進んでいった。


2 − 2 川の呼び名

水無瀬川は、明治以前は正確には水無瀬川とは言わなかった」39)という。

この言葉に私はかなり驚いた。「水無瀬の地は、和歌における歌枕として、古くからその地名を詠みこまれることが多かった」40)と町史には書かれている。

さらに、「平安のむかし、清少納言は『枕草子』に『川はみなせ川』と、魅力溢るる川の筆頭に水無瀬川をあげた」41)とされ、昔から和歌に水無瀬川と詠まれていたということを聞いていた。

だから水無瀬川水無瀬川ではないのか、どういうことなのかと疑問を抱いた。
井上幹雄さんによると、「水無瀬橋より上流指手橋までを指手川というた。水無瀬橋より下は水無瀬川。また尺代の方に行くと違う。4 つか5 つほどに分かれている。
その地元、地元で呼び名があった。

現在は総称して水無瀬川という」そうだ。そのような話は初めて聞いたので驚いた。
しかし、島本町に関する本を読んでみると、いくつかにその話が書かれていた。そのひとつを以下に紹介する。

この水無瀬川も上流の大沢では「下条川」、そこを下り川久保では「大沢渓川」、尺代のあたりでは「黒谷川」となり、東大寺からは「水無瀬川」と地元では呼んで来た。又、かつてその中流あたりで、東大寺村年寄は「指手川」、広瀬村庄屋は「水無瀬川」と、幕府役人の前で異った名称で言い争った近世文書も残っている。

すると、厳密に言えば、水無瀬川の呼称は、その平野部、それも淀川合流点近くのごく短い下流部のみということになる。

しかし、一方では、この川の上・中・下流を含めての総称として水無瀬川と呼ばれる用例も多く、むしろ、その方が古くからも一般的である42 )。

このように地区ごとに違った呼び方をして、それがもとで喧嘩を引き起こしたこともあったようだ。総称として水無瀬川と呼ばれ、和歌でもそのように詠まれていたようだが、年寄と庄屋の言い争いからわかるように、生活のなかでは地区ごとに異なる名称で呼ばれていたのであろう。

その名のとおり水が無いから「水無瀬川」と呼ぶのだと思われがちだが、けっしてそうではない。「みなせ」は漢字で「水成」「水生瀬」「水成瀬」「皆瀬」など、さまざまな形で表現されてきた44 )。しかし、水無瀬川の名前の由来は定かではないようだ

アンケートでも同様の回答があった。「島本町天王山トンネルから高速道路が通るようになってから(たぶんトンネルが1 つ増えてから)排気ガスか何のせいかわからないけど、川の水も汚くなったし、水の量が減ったから。

昔はもっとキレイで川の水がなくなることがなかったと思うから。
今は水がない」(20 歳・女)。

名神高速道路の天王山トンネルは渋滞緩和と事故防止のために車線が増やされ、
1998 年に2 本のトンネルが新設された47)。水無瀬川の水が減り「水無し川」となっている原因には、どうやらこのような道路開発も大きく影響しているといえるのかもしれない。

島本町民にふだん供給されている上水道は、いまでこそ大阪府営水道の水(元の水は淀川の河川水)が約10%含まれているものの、大部分は水無瀬川の伏流水、つまり地下水である。また、「水無瀬川の水を農業用水として大井手と言う所から水路をひいてる」48)という。

指手橋から少し上流のあたりで水無瀬川の水を低い堰堤でせき止め、農業用水として東大寺、広瀬へ供給している。

いまは低いコンクリートダムであるが、戦前までは河原の石を集めて積み上げ、井堰にしていた49)。この井堰が「大井手」である。

大井手はまた、「学校にプールのなかった頃は、夏には子供たちの恰好の水泳場だった」50)。アンケートにも「小学校、中学校の時岩谷橋付近に水泳場が有ってよく行きました」(55 歳・男)、「昭和17 〜18 年頃尺代の手前藤の棚の下の川に関止めをして水をためた所が有りそこで泳いだり水遊びをして遊びました」(73 歳・女)という記述があり、それらは大井手のある位置と近いことから、おそらくこの大井手で遊んでいたのであろう


水無瀬川はいまも昔も生活においてかけがえのない存在なのだが、大雨が降るとた
第2 節 水無瀬川とは25
写真2 − 6 水無瀬川下流、山ノ瀬橋より上流を望む

最近では雨が降っても目にしなくなったほどの水の量が、かつては流れていたが、今ではカラカラで、草が伸びきっていることもあり、どこが川の流れる道なのかわからなくなっている。

びたび洪水を引き起こした。それは図2 − 751)からもよくわかる。
水無瀬川の氾濫にかぎらず、島本町は淀川沿岸域に位置するので淀川の水が溢れたことも多かった。

幾度となく洪水にみまわれてきたのだが、そのなかでもとくに被害が大きかったのが昭和10 年8 月11 日の集中豪雨によって水無瀬川が決壊して起こった水害と、同じく集中豪雨によって町内のあらゆる川や池が氾濫し3 分の1 の人家が被害を受けたという昭和42 年7 月9 日の水害である

1216 健保4 8月 洪水のため水無瀬離宮が流失。
1596 文禄5 正月 豊臣秀吉が毛利・小早川ら諸大名に淀川の大改修を命じる。
1618 元和4 洪水により、高浜村にて被害が出る。
1674 延宝2 6月14日、淀川山川堤決壊し、高浜村冠水する。
1717 享保2 7月 淀川氾濫、堤決壊し、島本地域はじめ沿岸各村に大惨禍おこる。
1802 享和2 7月 山川提が決壊し、各村浸水。淀川水域全般で被害あり。
1848 弘化3 7月 大風洪水、小泉川・淀川の諸川洪水。
1852 嘉永5 7月 前日来大風雨のため、淀川洪水。京畿諸国決壊被害あり。
1868 明治元 5月13日 淀川洪水。広瀬・高浜など堤切れる。
1885 明治18 10月 島上・島下両郡、淀川堤防工事行う。
1896 明治29 淀川の本格的水防工事始まる。
1934 昭和9 9月21日 室戸台風水無瀬川堤防決壊、日紡一帯大浸水。
1935 昭和10 8月11日 集中豪雨により水無瀬川が決壊。東海道本線不通。
1950 昭和25 ジェーン台風で被災。
1952 昭和27 ケイト台風で被災。
1953 昭和28 9月 台風13号により大被害。桧尾川左岸で決壊し、島本地域でも被害が出る。
1959 昭和34 7月14日 豪雨災害。
1961 昭和36 6月24日 集中豪雨で被害が出る。
1967 昭和42 7月 9日 集中豪雨により町内1/3の人家被災。
1968 昭和43 9月25日 豪雨災害。
1972 昭和47 9月16日 台風20号により浸水・山崩れ等被害が出る。

図2 − 7 島本町における災害年表
島本町役場提供)

1 − 1 水害の概要
いまから約70 年前の昭和10 年(1935 年)8 月11 日、集中豪雨の影響で水無瀬川が決壊し、島本町内に大きな被害をもたらした。「島本町内で起こった水害としてはこれが1 番大きなもの」52)だという。

昭和10 年6 月に降り続いた豪雨で、水無瀬川の川底は浅くなり、東大寺の調子橋53)の下はとくに浅くなっていた。8 月11 日、京都府南部を中心に降った集中豪雨は、この調子橋の下を流木で堰止め、岩谷採石場に至る左岸の上を一帯に流れ出て、東海道線で堰止められ東大寺のガードを唯一のハケ口として溢れ出たため、東海道線の道床は押し流され、日本の大動脈も、16 日の朝まで不通であった。


ガード近くにあった新築間もない家は流出し、多くの家は大きな被害を受けた。12 日の朝、ガードを通じる柳谷線の道路は、まだ大人の首までの濁流と化していた54)。
この8 月の水害の前にも、6 月に降り続いた豪雨があり、有名な「鴨川大水害」を起こした。

それから2 ヵ月後、再び島本町を集中豪雨が襲った。「6 月に大雨が降って浸かった所もあるが、8 月11 日にも大雨が降って追い討ちをかけられた」との井上さんの言葉どおり、6 月の豪雨の影響で水無瀬川の川底が浅くなっていたところ、8 月の豪雨で耐えられなくなり、左岸が決壊し、大きな被害をもたらすこととなった。

昔は淀川からの逆流が多かったようで、水無瀬橋から水が触れたことがしょっちゅうだった。

そして子どものころ、雨が降ったら川に見に行っていた。また、家には井戸があって水無瀬川の水が増えると井戸の水も増えるからだいたい様子がわかる。それがある程度の目安であった。

昭和10 年のときは、JR すれすれまで川の水がきてた。水無瀬橋から水が触れた。そして調子橋の横あたりで切れた。家のあたりは水無瀬橋から坂になっているので少し(土地が)低くなっている。それよりさらに水無瀬神宮の方が低い。だから水は水無瀬神宮から上牧へと下流に流れた。

この水害後、水無瀬川右岸、指手橋あたりから調子橋までの間にあった田んぼを町が買い取り、遊水地の役割を担う東大寺公園が建設されることになったとい

昭和11 年ごろ家族から阪急水無瀬駅がポツントあった(当時の駅は桜井の駅)ということを聞いた(81 歳・男)。

最後に1 つことわっておかなければならない。じつはこの昭和10 年8 月11 日の水害の前年、昭和9 年にも室戸台風によって同じような場所で水無瀬川が切れ、大日本紡績一帯が大浸水したようなのだ63)。

・よく水無瀬川が氾濫して東大寺1 丁目は池のように低くなっているのでよく浸水して、昭和10 年は主人は経験ないが(S26 年生)子供の頃、床下浸水はよくあったとのこと(49歳・女)。
・現JR のガード横の坂道の所が竹やぶだった頃(72 歳・男)。
・日紡(現大阪染工)1 ヶ月操業休止だったと聞いてます(72 歳・男)。
・水無瀬橋の右岸と左岸(広セと東大寺)が浸水に道路が通れなかった(79 歳・女)。
・台風が大阪湾に上陸した時に水無瀬川が決かいして山崎の「かぎ卯」の所まで水が来ました。

1 − 1 水害の概要
昭和42 年(1967 年)7 月9 日、梅雨末期の集中豪雨によって島本町内のほとんどの川や池が溢れ、町内の3 分の1 の人家が被災する水害が起こった

台風くずれの低気圧が、九日朝、九州西部をかすめ西日本に居すわる梅雨前線を刺激したため西日本各地は局地的な豪雨に見舞われた。

わが島本も九日朝九時から二十二時まで百三十ミリの降雨があり、一時間当り最大五十五ミリ64)という近来まれな鉄砲水の直撃をうけた。

平素は水のすくない水無瀬川、えんま川、鈴谷、滝谷、中谷、高川、柳川そして八幡川等あらゆる河川65)はいっせいに、せきを切ったように狂奔し町内人家1/3 近くが、その濁流の被害を受けた。幸い死傷者は出なかったが、もし二百ミリ、三百ミリという集中豪雨にでも見舞われたら、わが島本はどうなっていただろう66)。

この豪雨はJR(当時国鉄東海道本線島本—高槻間を不通にし、鶴ヶ池の決壊や各地土砂崩れ、山崩れなど、地形の変化をともなう大規模な被害をもたらした67)。

総降雨量は130mm とある。近年、日本各地での豪雨は、総雨量が200mm を超えることが珍しくない。また、時間雨量55mm はたしかにたいへんな雨だが、近年では時間雨量100mm を超える雨が年間10 回以上も起きている。アメダス観測地点数からみると、時間雨量50mm を超える豪雨が1996 年から2003 年までの間に平均年271 回起きている68)。そのことを考えると、この昭和42 年豪雨はさほど特別なものとも思えない。

今後も島本町で起きるおそれがたいへん高い規模の豪雨といえるだろう。

かつて桜井村の用水池(ため池)としての役割を果たしていたのが鶴ヶ池である。
昭和42 年の水害時、この用水池が決壊
たった1 時間半で3 分の1 から満水

鶴ヶ池は昭和47 年末に埋め立てられ、島本町役場もある島本町住民センターおよび住民ホールが建設され(写真4 − 1 左)、かつての池は庭池として一部が残っている(写真4 − 1 右)。

町の小河川の増水、氾濫が相つぎ、「東大寺岸の下町営住宅は滝谷川のハン濫により畳をあげる間もなく濁流に見舞われた」74)、「桜井住宅は八幡川がハン濫し、住宅内の敷地に流れこみ宅地の低い一部は浸水をみた」75)という。

島本町社会福祉協議会の人が、「新住民の方はホタルや魚を残してほしいと自然保
護を呼びかけている。それに対して、旧住民の方は、災害のために改修してほしいと
言われている」と言っていた82)。

ホタルを守ってほしいという気持ちと水害の防止のためという気持ちの間には、かなり難しい対立があるといえるようだ。まさに「ホタルと治水をめぐって、人と人との護岸戦争」83)状態なのだろうか。

新住民の自然保護・ホタル重視の姿勢と水害を知っている旧住民の護岸工事優先との間の対立は、琵琶湖周辺など、かなり多くの地域でみられる84)。

水無瀬川が昭和40 年に国の管轄となり

島本町では、淀川および水無瀬川が大雨によって増水し、町内で堤防が決壊した場
合を想定した「洪水ハザードマップ(洪水避難地図)」が平成15 年5 月に全戸配布された。

水無瀬川も昭和40 年4 月に一部が一級河川適用となり、翌41 年4 月に延長され、
現在の距離(河口から3.985km)が一級河川として大阪府が管理する河川となった。

の河川法改正で慣行水利権95)が国の許可する許可水利権に転換され、中央管理化が始まった。社会的に行政管理が進み、地域住民や自治体が口や手を出せない、「社会的に遠い水」制度がつくりだされていった96)。


水無瀬川の洪水確率は10 年に1度だとわかった

①明神川。下流から上流を望む。この川が大阪府京都府の境界になっている。
②エンマ川。下流から上流を望む。サントリーの横を流れる。
③鈴谷川。下流から上流を望む。JR 鉄橋あたりで水無瀬川と合流。
④御所谷川。下流から上流を望む。下流で鶴ヶ池に流れ込む。
⑤中谷川。下流から上流を望む
⑥高川。下流から上流を望む。
⑦柳川。下流から上流を望む
⑧八幡川。下流から上流を望む。


(参考)
上記、京都精華大学の災害調査を引用した他の大学の学生の卒論より一部抜粋。

平成 18 年度卒業論文
水害と地域社会~北海道長沼町を事例として~
人文科学科 人間システム科学専修課程
担当教官 宮内泰介
学生番号 05030137

京都精華大学水害史研究グループは「三世代交流型調査」という調査を行っているのだが、これは災害文化の伝承について、人々の経験不足を補うのによいシステムだと思う。

『平成 16 年度三世代交流型調査検討業務報告書(概要版)』から簡単にまとめると、「三世代交流型調査」というのは、災害時に重要となる人と人、人と情報のつながりを育み水害に対する「対応手法」を考えるために、小中学生が自分達の父母や祖父母、地域の年配の人々に水害に関する聞きとり調査を行い、ともに災害避難マップづくりをすることで、世代を越えたいわゆる「三世代あるいは四世代の交流」を行おうという調査だと言える。

古写真や現在写真を用いながら経験者に話を伺うことで生き生きとした記憶に触れ、さらに今災害が起こったらどんなところが危険かということを皆で考えることで、意識が新たになる。

災害文化を受け継ぐことや皆で過去の災害を考えることには利点がある。マニュアル、ガイドラインといったものを作る人たちは働き盛りで体が動く人たちである。お年寄り、子供と一緒に考えることで、違った視点に気づくはずである。

たとえば、避難指示を出されてからの行動や動くことのできる水位など、世代ごとに違う危険に気をつけなければならない。それに市民からの生きた情報は、巡視・点検がいたらないような細かい箇所もカバーすることができるだろう。

この調査によって、洪水に強い地域社会づくりを行うためのソフト対策を、それぞれの地域の特性に合わせて考えることができるのも魅力である。



平安・鎌倉時代の古文書に記されている水無瀬川の氾濫

例えば、『伊勢物語』『百錬抄』『中務内侍日記』や藤原定家の日記『明月記』等
三川の合流大洪水の地・水無瀬  2012/7/24(火)