白梅が六分咲き


阪急水無瀬駅から真西へ1km行った名神高速道路の土手に待宵小侍従の碑(顕彰碑)と墓があります。平成七年名神高速道路拡張工事の時、北側よりここに移築されたもの。

この地は苔山と呼ばれ、地元ではこの墓碑を『こけじんさん』と呼び、いつも花がたむけられ、お賽銭もあがっています。

今年もこの周辺では例年でしたら最も早く咲くこの碑の白梅が咲いたかなと思い、先月と今月上旬に見に行きましたがチラホラ。一昨日20日(金)に行きましたら、6分咲程。もう一度暖かくなると満開になるでしょう。(画像の左側)

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この碑から眺める東の空の日の出。
手前は御所ヶ池。左、遥か向こうの小山は石清水八幡宮うの男山。
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(御所ヶ池)
御所ヶ池と言う地名の発祥は、桓武天皇の皇子、円満院法親王の御所があったと言われ、清和天皇の時に「桜井御所」と呼ばれた。

白河法皇は清水日向守光重(待宵小侍従の兄)、清水長門守頼議に管理を命じた。
応仁の乱の兵火により焼失したが、資料的に確かではない。


待宵小侍従の碑(顕彰碑)と白梅

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メジロとの遭遇を期待したけど、会えなんだ。

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尚、京都の北野天神さん(北野天満宮)などの京都の梅は、例年、ここが満開になってから見頃に入るから、未だ蕾のようです。

(京都の梅情報 2015:京都新聞

御所ヶ池の鴨

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珍しくも川鵜がいた。
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               ◆       ◆       ◆

画面は、夕暮れのJR島本駅西口への小径。
画面左は東海道線を走る電車。
その先の画面中央右寄りの照明で最も白く輝く所がJR島本駅プラットホーム。

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この画像は、夕刻、駅から北へ数百メートルの『桜井村踏切』付近から撮ったものですが、朝のここでは度々母親と一緒に行き交う電車をじっと見つめてたたずむ2~3歳の幼児を見かける。やはり男の子。電車を相当好きなようだ。

(場所)
待宵小侍従の碑(顕彰碑)は、地図の左下。赤〇に白抜きの④
桜井村踏切は、地図右上。赤〇に白抜き㉑と島本駅との中間の踏切。

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島本町役場サイトより一部切り取り)




(参考)

待宵小侍従は、平安時代、恋人を待ちわびる胸の苦しみを詠んだ歌で有名です。

「待つ宵の 更け行く鐘の声聞けば 帰る朝(あした)の鳥はものかは」

あまのさんの(「辛酉夜話」掲載)長年の研究調査によりますと下記の様に書かれております。

待宵小侍従は平家物語』5巻の「月見」に登場します。

ある時、太皇太后多子より、「男の訪れを待つ宵と、翌朝男の帰る後朝(きぬぎぬ)の別れと何れが哀れが勝るか」との仰せがあり小侍従は即座に、

 「待つ宵の更け行く鐘の声聞けば帰る朝(あした)の鳥はものかは」

とお応え申し上げ、其の和歌の情趣と即詠の才は小侍従の名声を高め、「待宵の小侍従」と呼ばれるようになった」、と言われております。

その勅撰集入集歌は「千載和歌集」以後五十四首におよび、この時代を代表する歌人の一人でありました。。

歌人藤原定家は、正治二年十一月八日の内大臣源通親邸の歌合に、小侍従と合わされ、日記「明月記」に以下のように記しています。

「今夜、小侍従と合せ、二番勝つ。存外の面目なり」。
時に小侍従八十才、定家三十八才

尚、彼女は、平安末期の後白河院院政期から、鎌倉時代後鳥羽院院政初期の頃まで、歌人として活躍し、二条天皇太皇太后多子・高倉天皇の順にお仕えしました。



待宵小侍従の碑(顕彰碑)

慶安二年(1649)七月 永井日向守直清は、山城国勝龍寺城主から高槻城主となる。慶安三年(1650)顕彰碑を建立。

直清は同月二十九日 古曽部村に能因法師の碑を、翌四年には伊勢寺内に伊勢の碑を建てて顕彰している。

これら有名な三歌人の顕彰碑は、直清が勝龍寺時代から建立を計画し、その銘文を林羅山に撰文させた。

碑銘

待宵小侍從者姓紀氏武内宿祢苗裔石清水別當
光清娘也仕近衛皇后多子治久四年八月中旬
徳大寺左大将藤原実定自福原帰洛一夕請皇后
月 時 小侍從陪侍翌朝帰福原使蔵人伝語因示倭歌
小侍從酬之多子者実定妹也小侍從好和歌誉
有待宵聞鐘之語故祢曰待宵小侍從其所詠歌多
載在歴代勅撰可謂閨秀也俗伝攝津高槻城
畔一里許有其古跡聊記之以為証焉

  慶安三年春三月 日   日向守永井氏直清置