日本人の分かち合う心


兄弟や近隣の皆と分かち合う心は、古くは律令国家の五保(ごほ)に始まり、秀吉⇒江戸時代の五人組制度で定着し、そして今、1300年に亘り日本人の脳幹に深く刻まれてきたものものですね。

拠って、ごく自然に分かち合えるのは、日本人の本能となっているとも言えますね。

尚、改めて調べて見ると、戦前(1936、昭和11年)の修身でも教えていました。

この視点からは、戦時中や終戦後はともかく、世代交代し、修身を習っていない今の子供たちの心には、恐らく戦前・戦時中に教育を受けた三世代前の親がその子である二世代前にそれを躾け、更に二世代前が今の親である一世代前にその精神を教え、それを今の子が継承したとも言えますね。

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(参考)私のブログ記事
日本人の血と遺伝子とは  2014/3/16(日) 

日本人の脳幹に潜むもの  2014/3/17(月) 

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改めて、終戦直後の日本の子供(三世代前)についての記事がありましたので掲載します。この新聞記事は既にご覧になった方が多いと思いますが。

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やばいぞ日本】第4部 忘れてしまったもの(1)一片のパン「幼いマリコに」
 2007.11.06  MSN産経新聞

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81歳、進駐軍兵士だった元ハワイ州知事、ジョージ・アリヨシ氏から手紙(英文)が、記者の手元に届いたのは今年10月中旬だった。

 親殺し、子殺し、数々の不正や偽装が伝えられる中、元知事の訴えは、「義理、恩、おかげさま、国のために」に、日本人がもう一度思いをはせてほしいというものだった。

終戦直後に出会った少年がみせた日本人の心が今も、アリヨシ氏の胸に刻まれているからだ。

 手紙によると、陸軍に入隊したばかりのアリヨシ氏は1945年秋、初めて東京の土を踏んだ。
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(注)アリヨシ氏は、1944年にマッキンリー高校を卒業後、陸軍情報部日本語学校に入学、終戦直後の廃墟となった東京でGHQの通訳として勤務した。

(注)右の画像:1946(昭和21)年8月1日、終戦後の東京の繁華街で大人に混じって靴磨きをする少年。家族や家をなくした戦災孤児は多く、靴磨きや金属類を拾うことで生活費をかせぐたくましい子どもたちが都会にはたくさんいた。2012/08/01 08:00 【共同通信

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丸の内の旧郵船ビルを兵舎にしていた彼が最初に出会った日本人は、靴を磨いてくれた7歳の少年だった。言葉を交わすうち、少年が両親を失い、妹と2人で過酷な時代を生きていかねばならないことを知った。

 東京は焼け野原だった。その年は大凶作で、1000万人の日本人が餓死するといわれていた。少年は背筋を伸ばし、しっかりと受け答えしていたが、空腹の様子は隠しようもなかった。

 彼は兵舎に戻り、食事に出されたパンにバターとジャムを塗るとナプキンで包んだ。持ち出しは禁じられていた。だが、彼はすぐさま少年のところにとって返し、包みを渡した。少年は「ありがとうございます」と言い、包みを箱に入れた。

 彼は少年に、なぜ箱にしまったのか、おなかはすいていないのかと尋ねた。

少年は「おなかはすいています」といい、「3歳のマリコが家で待っています。一緒に食べたいんです」といった。

アリヨシ氏は手紙にこのときのことをつづった。
「この7歳のおなかをすかせた少年が、3歳の妹のマリコとわずか一片のパンを分かち合おうとしたことに深く感動した」と。

 彼はこのあとも、ハワイ出身の仲間とともに少年を手助けした。
しかし、日本には2カ月しかいなかった。

再入隊せず、本国で法律を学ぶことを選んだからだ。
そして、1974年、日系人として初めてハワイ州知事に就任した。

のち、アリヨシ氏は日本に旅行するたび、この少年のその後の人生を心配した。
メディアとともに消息を探したが、見つからなかった。

 「妹の名前がマリコであることは覚えていたが、靴磨きの少年の名前は知らなかった。私は彼に会いたかった」

 記者がハワイ在住のアリヨシ氏に手紙を書いたのは先月、大阪防衛協会が発行した機関紙「まもり」のコラムを見たからだ。

筆者は少年と同年齢の蛯原康治同協会事務局長(70)。五百旗頭(いおきべ)真(まこと)防衛大学校長が4月の講演で、元知事と少年の交流を紹介した。

それを聞いた蛯原氏は「毅然(きぜん)とした日本人の存在を知ってもらいたかったため」と語った。記者は経緯を確認したかった。

 アリヨシ氏の手紙は「荒廃した国家を経済大国に変えた日本を考えるたびに、あの少年の気概と心情を思いだす。

それは『国のために』という日本国民の精神と犠牲を象徴するものだ」と記されていた。今を生きる日本人へのメッセージが最後にしたためられていた。

 「幾星霜が過ぎ、日本は変わった。今日の日本人は生きるための戦いをしなくてよい。ほとんどの人びとは、両親や祖父母が新しい日本を作るために払った努力と犠牲のことを知らない。

すべてのことは容易に手に入る。そうした人たちは今こそ、7歳の靴磨きの少年の家族や国を思う気概と苦闘をもう一度考えるべきである。義理、責任、恩、おかげさまで、という言葉が思い浮かぶ」

 凛(りん)とした日本人たれ。父母が福岡県豊前市出身だった有吉氏の“祖国”への思いが凝縮されていた。


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(参考)昭和11年 中学の修身の教科書

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修身教科書十六課、教育に関する勅語

『社会・国家に奉じる』前に、『一身・一家の繁栄を図り』と記されている事も注目に値するのではないかと。つまり、『まずは、わが身や我が家の繁栄を願って、その結果が社会・国家の繁栄に繋がる』のだと。

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修身教科書十五課 友愛
 
『兄姉は弟妹を愛し、弟妹が兄姉を敬うのは人情の自然で、かくすることが、即ち友愛の道である。』

『ことに父母亡き後の兄姉は、親に代わって弟妹を扶養せねばならぬから、弟妹はまた真心よりこれを感謝して、助け合い慰め合うべきである。』

(画像&文引用先)


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(参考)ウィキペディアより

ジョージ・リョーイチ・アリヨシ(George Ryoichi Ariyoshi、日本名:有吉 良一(ありよし りょういち)、1926年3月12日 - ) アメリカ合衆国の政治家。

民主党員。ジョン・アンソニー・バーンズ知事の後を継ぐ形で、1974年から1986年にかけて第3代ハワイ州知事を務めた。日系アメリカ人として、またアジア系アメリカ人として初めて州知事となった人物である。現在では、ハワイ州民主党の長老の1人とされている。

経歴

1926年、当時アメリカの準州であったハワイのホノルル市出生。福岡県出身で、力士を辞めた後に貨物船の船員となり、1919年に寄港したハワイを気に入りそのまま定住した父と、熊本県出身の母の元に生まれる。両親は豆腐屋経営を経て、クリーニング店を立ち上げ生計を立てた。

幼少期に軽い言語障害を患う。1944年にマッキンリー高校を卒業後、陸軍情報部日本語学校に入学、廃墟となった東京でGHQの通訳として勤務した。

帰国後は、ハワイ大学マノア校を経てミシガン州立大学編入学し、1949年に学士号を取得、1952年にはミシガン大学法科大学院において、法学士号も取得した。

大学卒業後は、ハワイに戻り弁護士事務所に入所したが、1954年9月に民主党ハワイ州代表(当時)だったジョン・アンソニー・バーンズからの打診により、州下院議員選挙に出馬し当選する。

その後は、1958年に州上院議員、翌1959年には連邦上院議員に選出される。連邦上院議員在任中の1970年に、アリヨシを後継者にすることを見据えていたバーンズ知事の依頼により、副知事に就任し、1973年10月にバーンズが病に倒れた際は、アリヨシが知事代理としての役割を務めた。

その後は、1974年・1978年・1982年に亘って3選を果たし、退任後は複数の会社や非営利団体で活躍した。
私生活では、1955年にホノルルでジーン・ミヤ・ハヤシと結婚し、2男1女をもうけた。

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                               つづく